藤原 興邦(ふじわら の おきくに)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原北家、参議・藤原常嗣の子。官位は従四位下・内蔵権頭。
経歴
承和年間に長く内舎人を務め、のち右衛門少・大尉を歴任すると共に、近江大掾・備前掾を兼任した。
文徳朝の斉衡2年(855年)従五位下に叙爵し、同年筑前介次いで筑前権守を遥任で兼ねる。のち、左兵衛佐・右衛門佐を経て、天安2年(858年)春宮大進次いで春宮亮を兼ねて春宮・惟仁親王に仕え、同年11月の惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い、正五位下に昇叙された。またこの頃より内蔵権頭も務めている。
貞観4年(862年)従四位下に叙せられるが、翌貞観5年(863年)1月5日卒去。享年43。最終官位は従四位下行内蔵権頭。
官歴
『六国史』による。
系譜
『尊卑分脈』による。
系図上、甥(弟・文弘の子)にあたる、澄影・影覧(いずれも母は藤原春津の娘)を興邦の子とする説もある[1]。
脚注
出典