藤原 実兼(ふじわら の さねかね)は、平安時代後期の貴族。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公実の子。官位は正四位上・刑部卿。
経歴
太皇太后宮亮のほか天仁元年(1108年)から永久3年(1115年)まで少納言、ついで備後守に任ぜられ、その任期終了後出家したとされる。
他の兄弟が待賢門院の兄として出世する中[2]、公卿に昇進できなかった。角田文衛の説では、待賢門院の女房であった実兼の娘に鳥羽天皇が密通し、それを知った白河法皇が怒って女房を追放したことが原因ではないか、としている。
系譜
脚注
- ^ 『本朝世紀』天養元年4月29日(1144年6月9日)の記事に令子内親王の崩御に関連して「刑部卿実兼朝臣為使」との記載があることから、没年を大治5年とすることについては疑問がある(竹鼻績『今鏡(中) 全訳注』講談社学術文庫、1984年)。
- ^ 実兼と同じく異母兄弟であった実隆(中納言)・実行(太政大臣)・季成(権大納言)のいずれも公卿への昇進を果たしている。
出典
- 角田文衛『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』朝日選書、1985年