藤原 善九郎(ふじわら ぜんくろう、明治3年(1870年) - 大正12年(1923年))は、日本の実業家・煙火師。
生涯
長野県上水内郡平柴村(現長野市安茂里)に生まれる。信濃煙火合資会社を設立し、1894年(明治27年)24歳の時に北信地区花火師組合を発足。1910年(明治43年)名古屋の第10回関西府県連合共進会で2尺玉を出品。[1]
1915年(大正4年)に長野県煙火組合を創設し、組合長となる。この組合の事業として『煙火之研究』を発行し、長野県花火師の仲間の中心、指導者として活躍。この組合には73名の会員が参加したが、煙火の需要が多くなく、農業との兼業をする半農半工がほとんどだった。[1]1919年(大正8年)(信濃煙火合資会社)工場で爆発事故、長男が巻き込まれ数人の犠牲者が出て廃業。
しかしその後も花火技術の改良に取り組み、初めて打ち上げ花火に色をつけ、また初めて尺玉の打ち上げに成功した。原五郎兵衛(南信煙火組合)とともに長野地区の花火文化を作った。帝国農家一致協会支部安茂里軍人会創設・会長も務め、安茂里購買販売組合総裁も務め。時の親王から表彰。善九郎花火工場(煙研社)には 青木煙火の青木儀作[2]や信州煙火の創始者がいた。
藤原三代の碑
平柴の入口となる粘土山の先端に藤原三代の碑がある。三代の碑に最初に登場する、祖父藤原長左エ門宗近は、平柴算術塾を1855年(安政3年)に開塾後、罄宜学校(けいぎがっこう)[3]顧問を務め、安茂里小学校の前身となる平柴の矯正学校設立 に加わった。平柴の地に鈴木梅四郎・藤原銀次郎・差出に赤尾善治郎 などの文化人を輩出している事から、この地の江戸末期から明治・大正にかけての高い教育水準が読み取れる。
(平柴三代の碑撰書 国学者・文学博士小杉榲邨)
脚注
参考文献