藤原 信輔(ふじわら の のぶすけ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家中関白家、中納言・藤原経忠の子。官位は正四位下・右京大夫。
経歴
従五位下に叙爵後、白河院政期中期の永久2年(1114年)能登権守に任官する。その後は、淡路守・若狭守・駿河守・武蔵守・因幡守と白河院政期後期から鳥羽院政期後期にかけて四半世紀以上に亘って受領を歴任した。
久寿3年(1156年)2月に右京大夫に任ぜられる。同年7月に鳥羽法皇が崩御した際、藤原成親・源光保・信西・藤原惟方ら八人と法皇の遺体を入棺したという[1]。
その後出家し、太秦入道と号した[2]。元暦元年(1184年)卒去。
官歴
系譜
脚注
- ^ 『兵範記』保元元年7月2日条
- ^ a b c 『尊卑分脈』道隆公流
- ^ a b c d e 『中右記』
- ^ 『御産部類記』
- ^ 『中右記』大治2年正月20日条
- ^ 『平安遺文』2491
- ^ a b 『本朝世紀』
- ^ 『兵範記』
参考文献