舟崎 克彦(ふなざき よしひこ、1945年2月2日 - 2015年10月15日)は、日本の作家、詩人、作詞家、挿絵画家、劇画原作者。森窓一郎名義での作品もあり、著書は300冊以上にのぼる。影響を受けた文学者として、谷崎潤一郎、金子光晴、西東三鬼の3人を挙げている。柔道三段。2015年3月まで白百合女子大学教授として文章表現と創作の授業を講じる。
1945年2月、キリスト教系の病院なら米軍の爆撃を免れるはずとの母の考えにより、東京都中央区明石町の聖路加国際病院にて誕生。父の舟崎悌次郎は和歌山県生まれ、京都帝国大学経済学部卒、元画家志望だった建築家で、当時は会社社長。克彦は末男として東京都豊島区千早町に育つ。舟崎家はもともと新潟県佐渡市金丸の財産家であり、祖父舟崎由之は日本金属創業者で衆議院議員だった。祖父の実兄の松栄俊三は相川町長や新潟県会議員、佐渡汽船会長などを歴任した。戦時中は祖父の設立した会社が軍需産業の一端を担っていたため、経済的に恵まれていた。
1951年、2人の兄と同じように学習院初等科に入学。このとき左利きを右利きに変えさせられた。同級生に甯子内親王(のちの近衞甯子)や東郷和彦がいた[1]。
1952年、日本舞踊の名取だった実母が克彦の目の前で心臓発作を起こして急逝する。この時期の事柄は自伝的作品『雨の動物園』(サンケイ児童出版文化賞・国際アンデルセン賞優良作品賞受賞)に詳しい。母の死後、ディズニー・アニメと野鳥飼育に熱中する。愛読書は中西悟堂や内田清之助で、将来の夢は鳥類学者になって山階鳥類研究所の所員になることだった。学業は不振だったが、鳥類学の知識だけは教師を凌いでいたという。このころ、ディズニー作品の模写によって画家としての素質を培う。
杉浦茂や馬場のぼるの漫画や、柳亭痴楽、林家三平、古今亭志ん生らの落語からも大きな影響を受けた。小学校4年生から5年生のとき、東京の民間人で5台目といわれる米国ベンディックス社のテレビ受像機を父が購入する。トニー谷、フランキー堺、三木のり平らのコメディ番組に夢中になった。
1957年、学習院中等科入学。新聞部に在籍して漫画を描く。さらに、バレーボール部に所属する傍ら、『悲しみよこんにちは』などの映画や、プレスリーなどの音楽に熱中する。このころ継母を迎える。
1960年、学習院高等科入学。美術部と生物部と柔道部と演劇部に籍を置き、他校との対抗戦がある時期には応援団の副団長をも引き受けた。最も熱中していたのは演劇部の活動だった。しかし、クラブ活動に入れ込みすぎたために学業成績が低下して、大学への学内推薦が受けられなくなった(卒業はさせるが大学には推薦しないという"上げ首"処分)。この鬱屈していた時期に、学内誌の編集長から勧められて初めて詩作をおこなう。
1963年に高等科を卒業し、代々木ゼミナールで1年間の浪人生活を送る。1964年、一般入試を経て学習院大学経済学部経営学科に入学。借金して第1詩集『いもむしの詩』を栄光社から自費出版したところ、完売して黒字になる。この詩集を買った女子短大生近江靖子(のちの舟崎靖子)の紹介で高田敏子の主宰する同人誌『野火』の創刊に参加する。さらに、『野火』編集長赤間太郎の世話により、作詞家岡本おさみたちと共に『朝日新聞』夕刊の連載コラム「山手線」に取材記者として参加し、キャップ涌井昭治の指導を受けた。この仕事は大学卒業まで続いた。
その傍ら柔道部と演劇部に在籍し、大学1年の時にはジャン・アヌイの芝居に出演する。演劇部の仲間・他大学の学生たち(井上理恵・佐藤正隆等)と日仏会館ホールでシイラ・デラニィ作『蜜の味』に出演した。柔道部で主将になったため余裕がなくなって、演劇部は退部する。学習院卒で柔道部という経歴から右翼と誤解され、児童文学界で顰蹙を買ったこともある。舟崎は「落語アナーキー」を自称しており、また、当時の学生バンドブームに乗ってフォークバンドを結成した柔道部の友人に自ら作詞した歌を提供、その中の一曲は後にクレイジーキャッツがレコードに吹き込んだ。
画家志望でもあったが「才能がないからやめろ」と周囲に猛反対されて断念、1968年に大学を卒業すると、父の世話で東京建物の横浜支店に勤務し、不動産の鑑定評価業務に携わる。この年の秋に近江靖子と結婚、東京都世田谷区で所帯を持つ。
会社からはアルバイト禁止を言い渡されていたため、靖子と共にペンネームでレコードの作詞、荒木一郎のディスクジョッキー番組のシナリオ執筆、雑誌のイラスト制作といった仕事を続ける。
1969年、長女誕生。同年、不動産鑑定評価の業務が高等数学を要求されるため胃潰瘍となり、自宅療養中、暇に飽かせて『トンカチと花将軍』を靖子と共に執筆する。
1970年、『トンカチと花将軍』の原稿が旧知の高橋睦郎を経て矢川澄子の手に渡り、福音館書店に委ねられる。同年5月、第2詩集『塔は影をかばい乍ら』を森窓一郎名義で思潮社から上梓する。
胃潰瘍は一旦は回復したが、義理のある人々に向けて退職の口実を設けるため、意図的に胃潰瘍を再発させ、1971年に東京建物を退社する。同年、『トンカチと花将軍』が福音館書店から刊行され、童話作家としてデビューする。続いて同年、『野ウサギのラララ』を福音館書店の『母の友』誌に7か月間連載する(靖子との共作)。しかし福音館書店から、単行本化を拒絶される(後年、1999年に理論社から刊行)。同年、『スカンクプイプイ』をあかね書房から上梓する。同じく靖子との共作だった。
1972年、長男誕生。1973年、単独で執筆した初めての長編ファンタジー『ぽっぺん先生の日曜日』を出版社5、6社に持ち込んだところ、それまでの児童文学とあまりに違っていたのでことごとく拒絶反応を受けたが、高橋睦郎によって紹介された吉岡実の仲介で筑摩書房からの出版が決定する。以後、シリーズ物となって刊行されている。
1974年、高橋の誘いにより、吉村作治企画のギリシア・エジプト旅行に参加する。1975年、次女誕生。
1978年から数年間、ボローニャ国際児童図書展ツアーのアドバイザリースタッフとなり、ミヒャエル・エンデたちと交遊する。
1979年から3年間、NHK教育テレビ『おかあさんといっしょ』人形劇シナリオ『ブンブンたいむ』の台本を合計約700本執筆する。
1981年、靖子と離婚する。しかし以後も、仕事の上での共作関係は続く。
大人向けの小説も手がけ、『獏のいる風景』『黄昏クルーズ』は「奇妙な味」の作品、『ゴニラバニラ』では妖怪を扱い、『暗くなり待ち』では近親相姦を扱い、『鐘は鳴り 私はのこる』では英国人女性との恋愛を扱っている。
イラストレーターとして、『トンカチと花将軍』や『ぽっぺん先生』シリーズ、および『ピカソ君の探偵ノート』シリーズなどでは挿絵も手がけている。
1995年に発表した童話『それでも夜は明ける』(秋書房)は、児童文学では稀有な、阪神・淡路大震災をテーマにした作品である。
2015年3月まで白百合女子大学教授。同大学と調布市の共同事業として、桐朋学園芸術短期大学教授井上理恵とせんがわ劇場で、自身の作品(『悪魔の林檎』など)の舞台化を発表しつづけた。
2015年10月15日逝去[2][3][4][5]。70歳没。『魔界遍歴』(静山社、2015年10月6日)が最後の著作となった。
長女の舟崎真理には舟崎靖子との共著がある。
青山剛昌の漫画『名探偵コナン』は、舟崎の『ピカソ君の探偵帳』と主人公のキャラクター設定が類似しており、かつ同じ探偵ものであるとの読者の指摘を受け、舟崎が小学館編集部に問い合わせをしたところ、「作者は舟崎さんの作品を読んでいないかもしれません。だが、スタッフが『ピカソ君』のシチュエーションを面白がって、一アイデアとして提供した可能性はないとは云えない」という回答を得ている(舟崎著『これでいいのか子どもの本!!』風涛社・所収)。ちなみに『ピカソ君の探偵帳』の初出は1981年、福音館書店『子どもの館』4月号からであり、1983年には同社より単行本化されている。一方『名探偵コナン』の初出は小学館『週刊少年サンデー』平成6年(1994年)5号からとなっている。