肇和級防護巡洋艦 (ちょうわ/ちょうほう きゅう ぼうごじゅんようかん) とは清国が第一次世界大戦前に取得した防護巡洋艦の艦級である。同型艦3隻のうち肇和と應瑞はイギリスで、飛鴻はアメリカ合衆国で建造された。中華民国海軍として日中戦争に従事中の1937年(昭和12年)9月下旬、肇和は珠江で、應瑞は10月下旬に南京戦で、日本海軍の航空母艦などに攻撃されて大破したあと自沈した。飛鴻は辛亥革命のため清国に納入されず、ギリシャの軽巡エリとして運用され、1940年(昭和15年)8月15日にイタリア王立海軍の潜水艦デルフィーノの魚雷攻撃で沈没した。
概要
肇和級は清国海軍が日本海軍に対抗して1909年にイギリスに発注した巡洋艦である。発注先は姉妹艦それぞれ異なっており、肇和はアームストロング社で210,000ポンドで発注、應瑞はヴィッカーズ社で204,000ポンドで発注された。造船会社が違うため、同型艦でありながら細部の寸法や機関の構成が異なっている。アメリカ合衆国のニューヨーク造船所で建造された飛鴻 (Fei Hung) は清国(中華民国)ではなくギリシャ王国が購入し、ギリシャ海軍の軽巡洋艦エリ (Έλλη) として就役した[注釈 1][注釈 2]。
艦形
本級の船体形状は乾舷の高い平甲板型船体で艦首水面下に衝角の付く艦首から艦首甲板上に「アームストロング Marks XXIII 15.2cm(50口径)速射砲」を防盾の付いた単装砲架で1基、下部に司令塔を組み込んだ船橋を持つ操舵艦橋の背後には簡素な単脚式の前部マストが立つ。船体中央部に等間隔に並んだ2本煙突が立ち。煙突の周囲は煙管型の通風筒が立ち並ぶ艦載艇置き場となっており、艦載艇は前部マストの基部に付いたジブ・クレーン1基により運用された他に、舷側に付いた2本1組のボート・ダビットが片舷3組で計6組でも運用された。前後のマストの左右に副砲の「10.2cm(50口径)速射砲」が防盾の付いた単装砲架で片舷2基ずつ計4基が配置されていた。艦載艇置き場の後部には簡素な後部マストが立ち、その後ろの後部甲板上に2番主砲が後向きに1基が配置された。
船体の主甲板は平面部は68mm装甲が貼られ、舷側装甲の代わりに石炭庫を設ける事で敵弾や浸水を石炭で食い止める防御様式と成っていた。
同型艦
イギリス・アームストロング造船所にて1910年(明治43年)11月7日起工、1911年(明治44年)10月23日進水、1912年(大正元年)12月1日竣工。1937年(昭和12年)9月14日、広東省虎門要塞で日本海軍の軽巡夕張(第五水雷戦隊旗艦)および第29駆逐隊(追風、疾風)と交戦、本艦は座礁する[注釈 3]。9月26日以降、第一航空戦隊(龍驤、鳳翔)航空隊の空襲により損傷が拡大し、9月28日に自沈処分。
イギリス・ヴィッカーズ造船所にて1910年(明治43年)12月12日起工、1911年(明治44年)7月14日進水、同年12月1日竣工。日中戦争勃発後の1937年(昭和12年)9月中旬、日本海軍の基地航空部隊(陸上攻撃機)や第二航空戦隊の空母加賀航空隊[注釈 4]が長江周辺で作戦を開始する。9月22日以降、連日におよぶ日本海軍航空隊の波状攻撃により、僚艦(寧海、平海、逸仙)が大破する。僚艦と共に應瑞も撃破された。日本陸軍の南京進撃と日本海軍の揚子江遡上にともない、10月25日に南京にて自沈処分。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
- 「世界の艦船増刊 イギリス巡洋艦史」(海人社)
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦(1) 昭和十三年三月まで』 第72巻、朝雲新聞社、1974年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍航空概史』 第95巻、朝雲新聞社、1976年3月。
- 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
- 「Conway All The World's Fightingships 1906-1922」(Conway)
関連項目
外部リンク