羅門 光三郎(らもん みつさぶろう、1901年10月10日 - 1976年5月6日[1])は、日本の元俳優である[2][3][4]。本名は岩井 憲次(いわい けんじ)[2][3][4]。旧芸名は岩井 健夫(いわい たけお)、芳澤 一郎(よしざわ いちろう)[3][4]。剣戟映画を得意とする映画会社を渡り歩いた剣戟スターである。
1901年(明治34年)、大阪府西成郡今宮町(現在の大阪市西成区)に生まれる[2][3]。成器商業学校(現在の大阪学芸高等学校)中退[2][3][4]。
1921年(大正10年)、新派成美団に入り、武村新(1891年 - 1960年)の弟子となり、関西地区の各劇場に出演[2][4]。後に東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)にあった凌雲座、剣星座等の小芝居にも出演していた。
1927年(昭和2年)夏、阪東妻三郎プロダクションを退社した悪麗之助(1902年 - 1931年)が独立して、大阪港パーク撮影所でマキノ・プロダクションを退社した河原崎権三郎[要曖昧さ回避]を主演にして撮影されたサイレント映画『彼は復讐を忘れたか』で映画デビューを果たす[2][3][4]。ところが、同プロダクションは間も無く解散。同年末、東亜キネマへ入社[2][3][4]。これまで本名の岩井憲次または岩井健夫という芸名で活動していたが、同社の剣戟スターであった光岡龍三郎(1901年 - 1961年)の弟子となり、アメリカの映画俳優ラモン・ナヴァロ(1899年 - 1968年)の「ラモン」と光岡の「光」、龍三郎の「三郎」を取って羅門光三郎と名乗る[2][3][4]。入社当初は助演作品が続いていたが、1928年(昭和3年)、吉頂寺光(後の吉頂寺晃、1906年 - 没年不詳)の入社第一回主演作品である村越章二郎監督映画『建国の鐘』で共演して以来、村越監督映作品を中心に大活躍し、東亜時代劇スターの一翼を担う存在となる[2][4]。
中でも1931年(昭和6年)に公開された、直木三十五原作の山口哲平監督映画『南国太平記』では松竹と競作となったが、羅門が演じた益満休之助は松竹の剣戟俳優月形龍之介(1902年 - 1970年)に勝るとも劣らない主演ぶりであり、一気に同社のトップスターとなる。またこの間、同じく同社の女優であり、共演も多かった原駒子(1910年 - 1968年)と結婚している[2][3][4]。
1931年(昭和6年)、東亜キネマは営業不振から代行会社であった東活映画社に製作が移されるが、羅門は残留する[2][3][4]。そして後藤岱山監督の第一回作品『薩南大評定』に原と共演。ところが羅門は解散を予兆して直ぐに退社し、1932年(昭和7年)2月、大阪市の某印刷業者を出資者に、奈良県生駒郡生駒町(現在の同県生駒市)にあった月形プロダクションの跡地に創立された富国映画社に原と共に入社する[2][3][4]。ところが、こちらも同年に間も無く解散。その後はかつてのヒット作品『南国太平記』を提げて原と共に四国地方を中心に実演の旅に出たが、同年11月、今度は宝塚キネマに入社して多数の作品で主演を務めるも奮闘は虚しく、1934年(昭和9年)1月に間も無く解散[2][3][4]。
その後フリーとなって片岡千恵蔵プロダクション、第一映画社等の作品に出演していたが、1935年(昭和10年)2月に発足した極東キネマ甲陽撮影所へ入社する[2][3][4]。同年、仁科熊彦監督の第一回作品『益満休之助』二部作を始め、多数の作品で主演を務めた。ところが同年、原と離婚[2][4]。更に1936年(昭和11年)3月、大阪市外の古市白鳥園撮影所に撮影所を移転した際、極東キネマは分裂。羅門は残留組として甲陽映画社に加わり、数本の作品に出演するが、同社で初めてサウンド版を経験する[2][3][4]。後に資金・興行を受け持っていた千鳥興行から独立し、共同経営者となるが、またもや経営不振で1937年(昭和12年)3月に解散。解散後、今井理輔が創立した今井映画製作所に海江田譲二(1908年 - 1986年)と共に招かれ、短期間ではあるが、数本の作品に立て続けに主演を務めた[2][3][4]。
1938年(昭和13年)2月、今井映画製作所が東宝映画京都撮影所に吸収されたのを機に同年5月、新興キネマ京都撮影所に入社[2][3][4]し、約10年に及んだ三流キネマや弱小プロダクション遍歴に終止符を打つ。以後も多くの作品に主演・助演を務める。
1942年(昭和17年)、新興キネマは大映に統合されるが、羅門は引き続き京都撮影所に在籍し、以後も阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎といった四大スターと多数の作品で共演し、戦争末期まで活躍した[2][3][4]。
戦後も1945年(昭和20年)9月公開の丸根賛太郎監督映画『狸の呉れた赤ん坊』等に出演していたが、後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から時代劇に厳しい制約が加えられたため、現代劇の出演を余儀なくされる[2][4]。これまで時代劇を中心に活躍していた役者が慣れずにいる中、羅門は数本の作品で現代劇にも意欲を燃やした。ところが1946年(昭和21年)、立ち回り中に左眼を負傷してしまい、失明する[2][3][4]。失明の原因については、メチルアルコールを呑んだためであるとも言われている[5]。1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ平和条約が発効すると共に時代劇の制約も解け、羅門も再び時代劇に転向するが、1946年(昭和21年)公開の春原政久監督映画『狸になった和尚さん』を最後に主演作品が製作されておらず、既に脇役に回されていたが、それでも羅門は多数の作品で助演した[2][3][4]。
しかし1962年(昭和37年)、失明がもとで健康を損ね、同年に出演した作品は木村恵吾監督映画『鉄砲安の生涯』のみである[2][4]。1963年(昭和38年)、体調が優れない中、田中徳三監督映画『座頭市兇状旅』に出演していたが、同作を最後に姿を消した[2][3][4]。出演作品は戦前169本、戦後113本を数える[2][3][4]。
1970年(昭和45年)頃、京都府京都市上京区にある京都双岡病院に数年間入院し、その後老人ホームに入所していたと言われている[2]。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』等ほとんどの資料では、以後の羅門の消息を不明とし[2][3][4]、長らく没年不詳とされていたが、1976年(昭和51年)5月6日に亡くなった事が判明した[1]。満74歳没。