織田 作之助(おだ さくのすけ、1913年(大正2年)10月26日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の小説家。戦後、太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれ「織田作(おださく)」の愛称で親しまれる。『夫婦善哉』で作家としての地位を確立。
1913年(大正2年)、大阪市南区生玉前町(現・天王寺区上汐4丁目、生魂小学校正門前付近)にて、仕出屋(後に『一銭天麩羅屋』に業態変更)「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる。仕出屋とは言え、上汐町筋より路地を入った所謂『裏店』(うらだな)であったが、中央区上汐1丁目の一画(『近松門左衛門の墓』のすぐ東側)に当時の家並(表店と路地=長屋)が唯一残っている。当時両親は母方から結婚反対に遭っていた為に婚姻届を提出できておらず、戸籍上は母の兄・鈴木安太郎の甥「鈴木作之助」という形をとった。作之助が「織田作之助」となるのは、1926年に両親が正式に入籍を果たしてからである。
1917年に父が商売で失敗し、大阪市東区東平野町に移る。1920年(大正9年)、大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現・大阪市立生魂小学校)に入学。1926年、旧制大阪府立高津中学校(現・大阪府立高津高等学校)入学、この頃は『少年倶楽部』などを愛読し、校誌『常盤木』に夏休みのみ同人として参加。1931年に第三高等学校(新制京都大学教養部の前身)文科甲類に合格、田宮虎彦、白崎礼三、瀬川健一郎などと知り合う。1932年には校友会誌『嶽水会雑誌』に評論や戯曲を寄稿、青山光二とともに1933年に編集委員となる。1934年に卒業試験中に喀血し、白浜温泉にて転地療養。その後復学はするものの、勉学に対する意欲を失い、町歩きに明け暮れるようになり、また東一条のカフェの女給宮田一枝と出会い同棲生活を始める。劇作家志望で『嶽水会雑誌』に戯曲「饒舌」を発表し、1935年に青山光二、柴野片彦らと同人誌『海風』を創刊。1936年、出席不足で退学。
1938年にスタンダールに影響を受けて小説家へ志向を転換、『海風』に初めての小説「ひとりすまう」を発表、続いて書いた「雨」が武田麟太郎に注目される。
1939年(昭和14年)3月に帰阪。長姉・タツの嫁ぎ先である竹中国治郎のもとへ寄寓する(ちなみにこの夫婦は、三高時代の学費を全額負担するなど、学生時代の作之助に対し惜しみない援助を行っていた)。7月15日、阿倍野の料亭「ちとせ」で宮田一枝と挙式し、南河内郡野田村(現・堺市東区)へ移る。尚、この時期、作之助は日本織物新聞社や日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)への勤務を経験している。
一方で作家活動も続け、1939年9月には『海風』6号に「俗臭」を発表。この作品は、義兄竹中国治郎の長兄・吉川重太郎の生涯に題を得たものだが、これが翌年、室生犀星の推薦で芥川龍之介賞候補作となって注目を集める。更に7月に発表した「夫婦善哉」(小説)が改造社の第一回文芸推薦作品となり、これを機に本格的な作家生活に入る。
尚、「俗臭」の冒頭に登場する児子勘吉は、義兄・竹中国治郎(およびその兄・吉川重太郎)の父で、湯浅の網元である吉川房六と言われている。
1941年8月には内閣情報局により風俗壊乱の恐れのある小説の一つとして『青春の逆説』が発禁処分(当時は発禁対象小説の題名は秘匿されていた)を受けたが[1]、当時の世俗を活写した短編「世相」を発表するなど、太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に新戯作派(無頼派)として活躍し、「オダサク」の愛称で親しまれた。
1943年頃に作品映画化を通じて映画監督・川島雄三と親交を深め、川島と共に日本軽佻派を結成した。 1944年(昭和19年)8月6日に妻・一枝を癌で亡くし(享年31)[2]、2年後に笹田和子と再婚した。
1943年の「聴雨」「勝負師」および1946年の「可能性の文学」は大阪の将棋棋士坂田三吉を題材としており、織田の死後の1947年に北條秀司がさらに坂田を主人公とした戯曲『王将』を発表をして、坂田三吉の名が広く知られるようになった。
1946年(昭和21年)12月、結核による大量の喀血を起こし、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院する。一進一退しつつも病状は徐々に悪化し、翌年の1月10日に死去。享年33。天徳寺で通夜が執り行われ、13日には桐ヶ谷斎場で荼毘に付される。1946年8月30日から『読売新聞』に連載されていた『土曜夫人』は12月8日で中絶した。
その後、大阪にて再び通夜が行われ、1月23日には楞厳寺(大阪市天王寺区)で葬儀が営まれた。葬儀委員長は作家・藤沢桓夫、喪主は義兄・竹中国治郎が務めた。墓所は楞厳寺の境内にあり、墓碑の背面には藤沢と吉村正一郎の手で、作之助の生涯が記されている。
愛妻家であり、最初の妻・一枝の死後、最期まで一枝の写真と遺髪を肌身離さず持ち歩いていた。一緒に持ち歩いていたライターや注射器(結核治療用の抗生物質を打つため。ただこの注射器を使ってヒロポンを打っていたとも言われている)と共に、日本近代文学館〈東京都目黒区〉に保管された[2]。坂口安吾の「反スタイルの記」では、ヒロポンを常用していた様子が描写されている[3]。またこの文章は作之助が死去した年に執筆されており、結核による喀血も同様に描写されている[3]。
1983年から大阪文学振興会により、作之助の名前を冠した織田作之助賞が主催されている。
没後60年目にあたる2007年に、「夫婦善哉」に別府温泉を舞台とした続編が存在していたことが判明。
2008年(平成20年)1月に「六白金星」と同じ題の未発表原稿が36枚発見された。原稿は戦中の1940年(昭和15年)の「文芸」9月号に掲載される予定だったもので1946年(昭和21年)に発表された「六白金星」のあとがきに「同じやうな材料を、私は昭和15年に書いたが、当時発表を許されなかった」と記されていたことから、これがその『同じやうな材料』にあたるものではないかと考えられ検閲により発表できなかったのではと考えられている。未掲載原稿は400字詰め原稿用紙で書かれており未完。ストーリーはほぼ同じだが、細部の文章が大きく異なる。
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出世作となった「俗臭」「夫婦善哉」をはじめ、「競馬」「世相」など短編を得意とした。また出身地である大阪に拘りを持ち、その作品には大阪の庶民(特に放浪者)の暮らしが描かれていることが特徴である。
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