細川 風谷(ほそかわ ふうこく、1867年 - 1919年8月18日、本名:細川源太郎)は日本の実業家、講談師。
父は統計院幹事を務めた細川広世[1]。
来歴
土佐国高知城下(現高知県高知市)に生まれる。1869年には父広世と共に上京し、杉浦重剛の称好塾に学ぶ。1885年渡米、サンフランシスコの太平洋商業学校で学んだ後、1890年に帰国。文学結社の硯友社社友として尾崎紅葉の下に私淑するが、この時紅葉の勧めにより風谷と号した。
1896年に日本郵船へ入り、外国航路線を担当。1901年事務長、1904年に病院船弘済丸事務長、1905年には備後丸事務長を経て1908年退社する。以後は講談新声会を主宰し[2]、講談作家並びに講談師として活躍するが、1919年8月18日死去。
主著
関連項目
- 講談倶楽部
- 川上眉山 - 硯友社の朋輩であったが、眉山自身は後に反硯友社のスタンスを取る。1908年に自害した際、風谷は「幻夢的な自殺」との言葉を残した[3]
参考文献
脚注
- ^ 内田魯庵 『三十年前の島田沼南』青空文庫
- ^ 鵠沼を巡る千一話 第167話 硯友社旅行会湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋
- ^ 川上眉山文学者掃苔録