米田 庄太郎[1](よねだ しょうたろう、1873年(明治6年)2月1日 - 1945年(昭和20年)12月18日[2])は、日本の社会学者。京都帝国大学教授[2]。文学博士[1][3]。
経歴
奈良県添上郡杏村(のち添上郡辰市村、現・奈良市杏町)の被差別部落に生まれる。農業を営む八十平の長男[1][4]。1878年、村立辰市小学校に入学[1]。
1886年、大阪府立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)入学[1]。1887年、奈良英和学校に転校する[4]。キリスト教聖公会に属する宣教師アイザック・ドーマンのもとで洗礼を受ける[4]。1891年、同校を卒業[2][4]。
1891年恩師のアイザック・ドーマンが東京の聖三一神学校(現・聖公会神学院の前身の一つ)の比較宗教学講師として嘱託されるにあたって助手として上京。ドーマンと『比較宗教学』の編集に従事[2]。1895年に渡米し、ニューヨークの米国国監督派神学校に入学。
1898年、コロンビア大学大学院に入学しギディングスに師事し社会学や統計学を学ぶ。1900年、コレージュ・ド・フランスに入学するために渡仏。ガブリエル・タルドに師事。1901年、日本に帰国。1902年、同志社高等科の教授に就任[1]。その後同志社高等科が同志社専門学校(現・同志社大学)と改称されてから経済学科の教授となり社会学社会政策、経済学、統計学を担当した[1]。
1907年、京都帝国大学文科大学(現・京都大学)に社会学の講座が開設されると講師としてその講座を担任する[1]。
1913年、建部遯吾に協力し日本社会学会の創立に関与。1920年、京都帝国大学教授。1925年3月、52歳で依願退職の辞令をうけ、その後も1942年3月、職を解かれるまで尚経済学部、法学部及び農学部の嘱託講師として不遇の地位に甘んじつつ講義をつづけた[1]。1945年、疎開先の大阪府豊能郡東郷村で死去。
人物
ガブリエル・タルドやゲオルク・ジンメルたちの学説を日本に紹介し、心理学的社会学を導入。社会思想研究の分野でも業績がある。門人に高田保馬、大阪市の社会調査を主導した山口正などがいる。また社会問題研究も行い、大原社会問題研究所の設立に助力し、社会福祉分野を担当した。大杉栄や賀川豊彦などにも影響を与えた。
学問的に極めて優れた業績を持っていたにもかかわらず京都帝国大学教授への昇進が遅れたのは被差別部落出身だったためという説もあるが、『解放新聞』(2009年5月11日)は「事実はどうやらそうではなかったようだ。かの有名な喜田貞吉ですら、教授就任までは米田と同じ年月を要したという」と評している[5]。
著書に『現代人心理と現代文明』『輓近社会学論』など単著33冊、論文は278本、新聞などに寄稿したものは157余がある。
現在、奈良市杏町の生家跡には「米田庄太郎生誕の碑」がある。
脚注
参考文献
- 蘇人寺田勇吉『部落の人豪』藤屋商店出版部、1920年。
- 『部落(43)』部落問題研究所出版部、1953年。
- 中久郎『米田庄太郎―新総合社会学の先駆者』東進堂、2002年。