簡王(かんおう)は、中国の春秋時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は中[3]。
生涯
楚の恵王の子として生まれた。恵王57年(紀元前432年)、恵王が薨去し、簡王が楚王として即位した。簡王元年(紀元前431年)、北伐して莒を滅ぼした[4]。簡王7年(紀元前425年)、宋の悼公が楚に来朝し、宋の司城[立皮]が公室を弱体化させていると報告した。簡王は莫敖の昜為に軍を率いて赴かせ、宋の公室を平定し、黄池や雍丘に築城するよう命じた。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて黄池を包囲したため、昜為の兵を楚に帰国させた。
簡王9年(紀元前423年)、簡王は昜為に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は宜陽を奪い、赤岸を包囲して、黄池の役に報復した。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて赤岸を救援したので、楚軍は包囲を解いて撤退した。晋軍と長城で戦って楚軍は敗れ、多くの物資を遺棄して逃走した[1]。簡王14年(紀元前418年)、南方で大土木工事を興したことで、楚の国人に憎まれ、焦工尹の子期が死んだ。簡王15年(紀元前417年)、令尹の子春が死去。簡王は城父公屈恒に郢の徙を率いさせて、陳から郢にやってこさせた。城父公屈恒が死去。司馬の昭叚が陽翟に城を築かせた。簡王16年(紀元前416年)、昭甲が罪を得て滅んだ[5]。簡王19年(紀元前413年)、楚軍が晋を攻撃して上洛に達した[6]。
簡王24年(紀元前408年)、簡王が薨去し、子の声王が楚王に即位した[4]。
脚注
- ^ a b 『清華簡』「繋年」21章
- ^ 『上海博物館蔵戦国楚竹書』「柬大王泊旱」
- ^ 『史記』楚世家による。同書六国年表では、仲とする
- ^ a b 『史記』楚世家
- ^ 『北京大学蔵西漢竹書』「堪輿」
- ^ 『古本竹書紀年』晋紀烈公3年