半島方面作戦終了後、第6軍団は第3軍団及び第5軍団と共に、ジョン・ポープ少将のバージニア軍支援のために派遣された。北軍の大敗北に終わった第二次ブルランの戦いには一部の部隊が戦闘したのみであった。第1師団の第1ニュージャージー旅団は8月27日にブルラン橋で戦い、死傷者・行方不明合計339人の損害を出した。旅団長のジョージ・テイラー(George W. Taylor)も瀕死の重症を負った。
マクレランに替わってアンブローズ・バーンサイドがポトマック軍の司令官に就任すると、それぞれ2個軍団から構成される大師団(Grand Division)を編成した。フランクリンは左翼大師団の司令官に昇進したため、スミスが第6軍団長となった。スローカムは第12軍団長に昇進した。第1師団長にはウィリアム・ブルックス(William T. H. Brooks)が、第2師団長にはアルビオン・ハウ(Albion P. Howe)がそれぞれ就任した。1862年12月13日のフレデリックスバーグの戦いでは、第6軍団は敵の砲火にさらされはしたが、戦闘に加わったのは数個連隊のみであった。ポトマック軍は敗北し、バーンサイドは解任された。
7月2日、アレクサンダー・シェラー( Alexander Shaler)准将の旅団は右側面の第12軍団の支援のために派遣され、左翼のニュートン師団のヘンリー・ユースタス(Henry L. Eustis)旅団及びフランク・ウィートン(Frank Wheaton)旅団もいくらかの損害を受けた。ウィートンの旅団は左翼側面を安定させる支援を行った。第3師団長のニュートンは、戦死したジョン・F・レイノルズの後を受けて第1軍団長となったため、ウィートンが第3師団の指揮を引き継いだ。
オーバーランド方面作戦における荒野の戦い(5月5日-7日)とスポットシルバニア・コートハウスの戦い(5月8日-21日)で、第6軍団はそれまで経験したことがない激しい戦闘を行った。荒野の戦いでは、第2師団のバーモント旅団は2,800人中1,232人を失った。スポットシルバニアでは第1師団の第15ニュージャージー旅団は、1日の損害としては最大の死傷率を記録した。軍団長のセジウィックは狙撃兵の銃弾で5月9日に戦死したが、セジウィックは兵士から「アンクル・ジョン」と慕われており、その戦死は軍団の士気に大きな影響を与えた。ライトが軍団長に昇進し、デイヴィッド・ラッセル(David Allen Russell)准将が第1師団長となった。5月10日、エモリー・アプトン大佐は第6軍団全体から選ばれた12個連隊を率いて、南軍の「ミュールシュー」と呼ばれた突出部に銃剣突撃をかけ、白兵戦を行った。5月12日、「ブラディ・アングル」で第6軍全体が戦ったが、このときの損失は、南北戦争中の最大損害記録に近いものであった。荒野の戦いでの損害は5,035人(戦死719人、負傷3.660人、行方不明656人)、スポットシルバニアでの損害は4.042人(戦死688人、負傷2,820人、行方不明534人)であった。
6月1日のコールドハーバーの戦いでは、再び死傷者2,715人の損害を出した。その後ピータースバーグ包囲戦に参加したが、南軍ジュバル・アーリー少将がメリーランドに侵攻したため、その対応のためシェナンドー渓谷に移動することとなった(1864年のバレー方面作戦)。7月6日、リケットの第3師団はシティ・ポイントで乗船し、8日にはバルチモアに到着、アーリーの追跡を開始した。翌日、モノカシーの戦いではルー・ウォーレス(後のベン・ハーの作者)に合流し、アーリーを打ち破ることはできなかったものの、ワシントン侵攻の遅延には成功し、戦略的勝利を収めた。残り2個師団は7月10日に乗船しワシントンに上陸、市の郊外とも言えるスティーブンス砦でアーリーを攻撃し、これに勝利した。この戦いの矛先は第2師団のダニエル・ビドウェル(Daniel D. Bidwell)の旅団に向かい、その連隊長は一人を除き全員が戦死あるいは負傷した。
^The Portrait Gallery of the War, Civil, Military, and Naval By Frank Moore, Alexander Hay Ritchie, George Edward Perine, John Chester Buttre, Henry Bryan Hall; Page 171
参考資料
Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.