第百七十五号哨戒特務艇[注釈 2](だいひゃくななじゅうごごうしょうかいとくむてい)は、日本海軍の特務艇(哨戒特務艇)。第一号型哨戒特務艇の69番艇[注釈 3]。海上保安庁の掃海船として行動中に遭難沈没した。
艇歴
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の175番艇、仮称艦名第2295号艦として計画。1944年11月5日、第百七十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の65番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年4月9日、船体概成により徳島合同造船株式会社から呉海軍工廠へ引き渡し。6月6日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、佐伯防備隊に編入。
終戦時は佐伯に所在。戦後は掃海に従事。
1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部佐伯支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百七十五号としている。1946年5月20日、佐伯支部から除かれ、呉地方復員局掃海部下関支部所属に改められる。
1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を下関掃海部に改められる。
1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-28となる。8月20日、船名を哨特第一七五号 MS-28に定められる。
1950年7月14日、朝鮮戦争の勃発により日本国内の重要港湾に対する共産側潜水艦による機雷敷設が予想されたため、アメリカ極東海軍司令部から日本に対し東京湾と佐世保港の毎日掃海(日施掃海)が指示された。東京湾は、本船ほか7隻を第三管区海上保安部航路啓開部に組み入れ、8月23日から掃海を実施した。10月9日、東京湾に展開していた元哨戒特務艇は、哨特第一七九号を除き朝鮮水域へ派遣されることが決まる。10月27日、本船ほか2隻は朝鮮水域へ向かうため佐世保へ回航されたが、本船は回航途上の10月30日に下田沖[注釈 4]で座礁し沈没した。
1951年1月19日、哨特第一七五号は海上保安庁を解役された[注釈 1]。
脚注
- 注釈
- ^ a b 昭和21年3月2日付 海上保安庁告示第8号による。世界の艦船『海上保安庁全船艇史』p. 66では「同年(昭和25年)12月21日解役」としている。
- ^ 本来の艇名表記は第百七十五號哨戒特務艇。
- ^ 本艇が特務艇類別等級別表に登載された1944年11月5日時点で、第27号哨戒特務艇、第33号哨戒特務艇、第34号哨戒特務艇、第156号哨戒特務艇が同表未登載のため、1944年11月5日時点で法令上は65番艇、これら4隻を含めると通算で69番艇となる。
- ^ 海上自衛隊『朝鮮動乱特別掃海史』、世界の艦船『海上保安庁全船艇史』p. 66による。『日本海軍護衛艦艇史』p. 114では「静岡県須崎沖」としている。
- 脚注
参考文献
- 海軍省
- 昭和19年11月5日付 達第363号、内令第1234号、内令第1236号。
- 昭和20年6月6日付 内令第418号、内令第419号。
- 昭和20年9月1日付 呉海軍軍需部『佐伯地区兵器/軍需品/舟艇/施設等引渡目録』。
- 第二復員省、復員庁
- 昭和20年12月1日付 内令第5号、内令第7号。
- 昭和21年5月20日付 内令第68号。
- 昭和21年6月15日付 復二第5号。
- 運輸省、海上保安庁
- 昭和23年8月20日付 運輸省告示第230号。
- 昭和21年3月2日付 海上保安庁告示第8号。
- 海上自衛隊『朝鮮動乱特別掃海史』、1961年2月。[1]
- 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
- 世界の艦船 No. 613 増刊第62集 『海上保安庁全船艇史』、海人社、2003年。
- 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第88巻 『海軍軍戦備(2) -開戦以後-』、朝雲新聞社、1975年。
- 丸スペシャル No. 49 日本海軍艦艇シリーズ 『駆潜艇・哨戒艇』、潮書房、1981年。