第一五三海軍航空隊(だい153かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。蘭印防衛を主眼とした偵察機部隊として、大東亜戦争後期に偵察・迎撃行動に従事した。
ニューギニアの陸戦が激化し、オーストラリアで戦力回復を図っていたアメリカ陸軍の反攻が間近に迫ってきたことを受け、西ニューギニアから東蘭印にかけての最前線で活動する長距離偵察隊が必要となってきた。長らくセレベス島のケンダリ飛行場を拠点として要衝ダーウィン方面の爆撃任務を担っていた第七五三海軍航空隊が長距離偵察任務も兼ねていたが、一度も内地帰還ができないまま消耗を強いられていた。そこで新たに偵察専門の部隊として編成されたのが一五三空である。しかし、当初は偵察機の調達ができなかったため、要員はそろっていても偵察ができず、陸軍飛行隊から得た偵察情報を分析して知らせるのが精一杯だった。開隊から2ヶ月で、ようやく陸軍から一〇〇式司令部偵察機の譲渡を受け、独自の偵察行動が可能になった。
南西方面艦隊第十三航空艦隊直率。
3月までに陸軍より譲渡された一〇〇式司偵での偵察を開始。3月初旬には本土より二式艦上偵察機が到着。
この頃、戦闘第311飛行隊を編入し、戦偵混成隊となる。
旧二〇一空戦闘機隊はケンダリに進出。
本隊戦闘機隊2機を第24飛行戦隊(ビアク島敵陣の爆撃)の護衛に派遣。
以後、再編作業に従事。
偵察第102飛行隊は残留。
戦闘第311飛行隊を二〇一空に譲渡し、解隊した第二五一海軍航空隊を戦闘第901飛行隊として編入。
8月中は機体不足のために哨戒活動は不可能で、陸軍飛行第15戦隊の情報分析に終始。
到着後、彗星2機・月光6機が故障のため哨戒不能。月光2機での哨戒を実施。
この行動を最後に、ニコルス本隊の行動は「戦史叢書」に記録されていない。
一五三空要員の大多数は、2月10日までの救出作業に乗じてよって台湾へ撤退することができず、フィリピンに取り残された。撤退できなかった全航空隊の搭乗員15000名は、杉本丑衛二十六航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を結成、陸軍戦車第二師団隷下で地上戦に借り出された。現地で一五三空要員の指揮を執った和田鉄二郎司令は降伏後の10月29日に病没し、生還できなかった。
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