神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月22日)は、明治末期から昭和初期にかけての官僚・政治家である。名古屋市助役や衆議院議員、東邦電力常務取締役を務めた。京都府出身。
経歴
神谷卓男は、明治4年12月9日(新暦:1872年1月18日)[1]、京都府与謝郡宮津町波路(現在の宮津市)に生まれた[2]。父・広生は旧宮津藩士で明治維新後は地方自治に尽力した人物である[2]。宮津小学校・天橋義塾・京都中学校を経て同志社に入り、1892年(明治25年)に同志社を卒業[2]。1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学で学んだのち1900年(明治33年)に帰国した[2]。
帰国後は日本新聞の記者となるが、公爵・貴族院議長の近衛篤麿の知遇を得て退職、近衛の秘書官に転じた[1]。1904年(明治37年)に近衛が没すると大韓帝国に渡り、一進会顧問として活動する[3]。その後大韓帝国政府に招聘され財務官となり、次いで咸鏡北道書記官となる[3][4]。韓国併合後も朝鮮総督府で平安北道内務部長などを歴任した[4]。
1913年(大正2年)1月18日付で朝鮮総督府道事務官を退官し[5]、同日名古屋市の助役に就任した[6]。在任中の市長は阪本釤之助で、在職期間は1917年(大正6年)1月の任期満了までの4年間である[6]。市長の阪本は「八方美人」型であったのに対し助役の神谷は威厳を示す「蛮勇」型であって、役所はいわゆるかかあ天下の様であったという[1]。退任後、1917年4月20日実施の第13回衆議院議員総選挙に無所属で京都府郡部選挙区(定員5人)より立候補し、第3位の得票を得て当選、衆議院議員となった[7]。当選半年後の第40回議会からは立憲国民党に属したが[8]、普通選挙の主張が1919年(大正8年)に党議で否決されたため脱党[9]。離党者6名で同年3月「純正国民党」を結成したが[9][10]、同党はほどなくして解散し、再び無所属となった[11]。翌1920年(大正9年)2月衆議院が解散される。神谷の衆議院議員在職はこの1期のみであった[4]。
議員在任中の1918年(大正7年)12月、名古屋電灯の取締役に就任する[12]。同社は名古屋市の電力会社で、当時福澤桃介が社長、下出民義が副社長を務めていた。翌1919年(大正8年)10月には支配人出身の角田正喬とともに常務へ昇格した[12]。1921年(大正10年)10月合併により関西電気常務取締役に就任[13]。経営陣が福澤から松永安左エ門らに交替し、関西電気改め東邦電力となった後も引き続き常務に在任する[14]。東邦電力では総務部長を兼ね、名古屋から東京への本社業務移転作業に従事した[15]。常務在任は1年余りで、1923年(大正12年)7月病気を理由に福澤駒吉と交代し辞任[16]。1927年(昭和2年)5月の役員改選にて取締役からも退いた[17]。
実業界ではその他、名古屋電灯・東邦電力傘下企業のうち愛知県稲沢の電力会社稲沢電灯にて1920年7月から1928年(昭和3年)5月にかけて取締役を[18]、福岡県の鉄道会社九州鉄道にて1922年(大正11年)2月から1925年(大正14年)12月にかけて監査役をそれぞれ務めた[19]。
1929年(昭和4年)10月22日、東京府豊多摩郡落合町(現・東京都新宿区)の自宅にて脳溢血で死去した[20]。57歳没。
栄典
脚注
参考文献