石塔氏(いしどうし)は、足利氏の支族。
名字の由来
石塔氏は、石堂氏とも書かれ、日本各地に見られる石塔・石堂の石造遺物に由来すると考えられる。氏祖の頼茂も、おそらく石造遺物に由来する地を拝領し名字としたと思われるが、それが何処かはいまだに判然としない。
事績
足利泰氏の4男「宰相阿闍梨・薬師寺別当」相義の子、頼茂は祖父泰氏の養子となり、「石塔四郎頼茂」を名乗る。頼茂の長子(一説に次子)義房が家督を相続し、頼茂の次子(一説に長子)国明は仏門に入り国阿上人となる。しかし、『奇異雑談集』『山州名跡史』等には箸崎国利が一子箸崎国明が1355年に発心し、国阿弥陀仏と称したとしている。『近江国輿地略史』では、頼房が国阿上人になったとしており、諸説ある。
石塔氏は代々の通り名として特に官途名も知られていないという事は、鎌倉末期まで足利庶流として別個の新武士団を独立させるような状況になかった事を示している。
義房は駿河・伊豆両守護職から建武4年(1337年)に奥州総大将に任ぜられて活躍する。貞和元年(1345年)には奥州総大将を解任されて上洛するが、足利尊氏と対立し、鎌倉に下向して足利直義に仕えた。この頃に、尊氏の四子足利基氏を拘束し、伊豆・甲斐守護となっている。観応の擾乱では、義房と次子頼房は直義党として活躍する。擾乱終結後も頼房は南朝方及び足利直冬方として抵抗を続けたが、貞治3年(1364年)頃に足利義詮に降伏、その後出家した。
一方で、文和3年(1354年)以降、義房の三子義基(又は義憲)は奥州総奉行職の後に設置された奥州管領を自称して活動をはじめる(足利直冬から任官されたと見られる)。文和3年(1354年)には国府多賀城を占領する勢いを見せたが、すぐに斯波家兼に奪還され、家運を落としていく。
その後、義基以後に、奥羽の地で奥州管領職権を行使した中に中務大輔某がおり、年代から見て中務大輔直房と見られている。おそらく南朝方の父・頼房と決別して幕府方に転じ義基の跡を継ぐかたちで奥羽に赴任したと見られている。さらに後、1378年に頼房の子三河守頼世が紀伊国南党橋本正督を攻める細川軍の中に現れ、1399年に応永の乱のときに、将軍義満の馬廻を務めた。しかし、こののち守護家としての石塔氏の存在を見出すことはできず、室町幕府の諸史料のなかに、足利一門のうち石塔氏のみが記録を見い出せない状況にある。
略系図
○出典:『尊卑分脈』(『水沢市史』収録)、『姓氏家系大辞典』
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク