田辺 忠男(たなべ ただお、1891年8月11日[1] - 1967年3月20日[2])は、大正から昭和時代の日本の経済学者、教育者。東京帝国大学経済学部教授、立教大学教授・経済学部長を務めたほか、高崎経済大学初代学長を始め、大分大学、東京農業大学、青山学院大学、国士舘大学で教授を歴任した[4]。
人物・経歴
1891年(明治24年)、田辺男外鉄(海軍軍人、神奈川県横須賀市長)の長男として生まれる。
暁星中学校 (旧制)、第一高等学校 (旧制)英法科をへて1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学経済学科卒業後、三井合名会社、横浜護謨をへて1920年(大正9年)に専修大学講師(のち教授)。その後、立教大学教授に就任。
1927年(昭和2年)東京帝国大学経済学部助教授を兼務する[5][6]。
1929年(昭和4年)より一年半仏独留学、1931年(昭和6年)東京帝国大学経済学部教授(1939年・昭和14年に平賀粛学で辞表提出)。
1934年(昭和9年)には、これまで兼務してきた[7]立教大学の専任教授となり(1943年・昭和18年まで)、経済原論と社会政策を教えた[8]。その間1937年(昭和12年)より同大学経済学部長(1941年・昭和16年まで)を務める[6][5][8]。
1941年(昭和16年)から約2年間、企画院勅任調査官(第一部付)を務め、国土計画の推進に携わる[6]。戦後、1946年(昭和21年)に日本進歩党政務調査会長、第22回衆議院議員総選挙に出馬[9]、1947年に公職追放[6]。
1948年(昭和23年)に民主自由党員となり第24回衆議院議員総選挙に立候補(東京都第7区 (中選挙区))。1949年(昭和24年)に反共団体新日本建設青年連盟を結成し書記長就任[6]。1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙に無所属で立候補(東京都第7区 (中選挙区))。政治活動のほかに東京信用保証協会理事、中央大学講師、大分大学・東京農業大学・青山学院大学教授、高崎経済大学学長(1957年・昭和32年)、国士舘大学教授も歴任した[6]。
その他
1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)には、立教大学野球部の部長を務めた[10]。
主な著作
- 『日本経済再建の構想』ダイヤモンド社 1948年
- 『労働組合運動の理論』経済懇話会 1948年
- 『共産主義批判』東京講演會大有社 1949年1月
- 『共産主義理論の批判』協友社 1949年
- 『マルクス経済学批判』新日本建設青年連盟 1949年10月
脚注