牛 次郎(ぎゅう じろう、1940年〈昭和15年〉5月19日 - )は、日本の漫画原作者・僧侶・小説家・作曲家・建築家。東京市浅草区出身。
長女は住職の牛込覚演[1]、息子はアニメーター・イラストレーターの志条ユキマサ。
東京市浅草区(現在の東京都台東区)生まれ。本名、牛込 記(うしごめ き)。
日本海軍の特務機関に勤める父と霊媒師の母の間に生まれ、父は「渡辺」の姓を名乗っていたものの自身を含む家族は職務上母の旧姓の牛込を名乗り[2][3]、東京大空襲を生き延び終戦後は通学のかたわら新聞配達や鉄工所に勤務し生計を立てる[4]。中学卒業後は東京都立上野高等学校に入学するも学費が払えず中退し学徒援護会の紹介で工事作業員[5]、喫茶店員を務める[6]。やがて不良となり暴力団と行動をともにしつつその後熱海に滞在するようになり[7]、売春街のバーテンダー[8]、レストランのコックを経て[9]、ベーシストに転向し[10]、東京に戻りアルゼンチンタンゴバンドのメンバーとして活動する中で株式会社西陣からオファーを受け入社[11]、この頃熱海時代にレストランで常連客として知り合った美容師の女性と結婚[9][12]。同社の宇宙楽団に参加しバンドマンとして電子楽器を駆使し、葬祭用音楽を作曲、録音。3年後に退社し[12]、妻の営む美容室に併設してレストランを開業し半年間営業した[13]。
レストラン売却後、西陣での勤務経験を生かしてパチンコ台の攻略法を記した持ち込み原稿をパチンコ情報のない夕刊フジに売り込み同紙にパチンコに関する連載記事などを執筆[13]。ペンネーム「牛次郎」は牛込の「牛」に売春街での勤務経験をヒントに吉原の男衆を指す「牛太郎」をもとに次男だったことから「太郎」を「次郎」にもじったものとした[8]。フリーライターとして週刊現代やプレイボーイにも関わる一方、パチンコを題材とした小説原稿「釘師」をベースとした「釘師サブやん」(作画:ビッグ錠)で劇画原作者としてデビュー[14]。その後もビッグ錠とのコラボレーションを続け『包丁人味平』『スーパーくいしん坊』で一世を風靡。一方で息子の小児喘息の療養のため再度熱海に自宅を構えつつ赤坂にマンション2室を借りて都内での仕事を続け、「包丁人味平」終了後は一時少年漫画から身を引き青年週刊誌への原作提供を続けつつテレビドラマ『消しゴムお亜季』『セーラー服通り』『流れ板七人』などに原作・原案として参加した[15]。1980年代には神矢みのるの作画による『プラレス3四郎』が人気を呼んだ。この他、横山まさみち『やる気まんまん』や、少女漫画の赤石路代『燃えてMIKO』などの漫画に原作を提供。また「渡辺寿光」名義で歴史小説、「高田竜史」名義で推理小説の執筆も行った[1]。
1981年、小説「リリーちゃんとお幸せに」で第8回野性時代新人文学賞受賞。1985年、東京都建築協会優秀賞受賞。
般若心経を題材とした作品を執筆する際に書店で手に取った仏教用語辞典で本名の「記」の意味を知ったことをきっかけに仏教書を読み漁り[16]、1986年に臨済宗妙心寺派医王寺で出家得度し、牛込覚心(うしごめ かくしん)となる[1]。1989年、自らの設計により、静岡県伊東市に願行寺(がんぎょうじ)を建立[1]。その後70歳の時に脳梗塞となり、リハビリの後東京のマンションを引き払う[17]。
2018年現在、願行寺の管長兼住職[1]。『ゆれ動心に渇』『生と死の般若心経』『生と死の観音経』など、仏教に関する著書も多い。
(1972年5月20日、フジテレビ / ピー・プロダクション)