熊本 謙二郎(くまもと けんじろう、慶応3年11月11日(1867年12月6日) - 1938年(昭和13年)10月26日)は、戦前日本の英語教育者。東京高等師範学校、学習院、早稲田大学高等師範部教授。
慶応3年(1867年)11月11日大坂で蘭方医熊本道俊と織衣の次男として生まれた[1]。虚弱児で、成長を危ぶまれる程だった[2]。大阪中学校、大阪専門学校を経て、1884年(明治17年)7月東京大学予備門に入学し、1887年(明治20年)9月第一高等中学校を卒業、帝国大学法学科に進学したが[1]、肺炎カタルを患い、恩師田村初太郎の説得により退学した[2]。
療養後、1888年(明治21年)5月兵庫県尋常中学校教諭、1891年(明治24年)12月大阪府尋常中学校教諭となった[2]。1897年(明治30年)秋矢田部良吉に東京高等師範学校へ勧誘されたが、文部省の規定上中学校から直接移れず[3]、1898年(明治31年)8月一旦第三高等学校教授となり[1]、1899年(明治32年)8月頃東京高師に移籍するところ、8月矢田部が事故死、9月着任するも、旧来の講師陣は次々と転出したため、神田乃武の招きで[3]苦悩の末[4]1902年(明治35年)4月学習院教授に転じた[1]。また、1905年(明治38年)から1909年(明治42年)まで早稲田大学高等師範部、1910年(明治43年)4月から1911年(明治44年)3月まで津田英学塾に出講した[1]。1919年(大正8年)宮内省から欧米に出張した[1]。
1921年(大正10年)4月早稲田高師部教授となり、学習院、高千穂高等商業学校、自由学園講師を兼ねた[1]。1922年(大正11年)3月学習院、1923年(大正12年)3月高千穂高商を退任し、1928年(昭和3年)9月から1930年(昭和5年)3月まで津田英学塾に出講した[1]。1931年(昭和6年)3月自由学園を退職し、1931年(昭和6年)4月國學院大學講師となった[1]。
晩年は腰・右足に神経痛を患い[2]、目白の自宅に隠棲した[5]。1938年(昭和13年)10月中旬風邪を拗らせて肺炎となり、26日午後4時死去した[1]。墓所は多磨霊園か[2]。
大坂で3代続く医家に生まれた[2]。元々香取付近出身ともいう[4]。
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