瀧安寺(りゅうあんじ)は、大阪府箕面市箕面公園にある本山修験宗の寺院。山号は箕面山(みのおさん)。宝くじの起源である富籤(くじ)発祥の地とされている。お金ではなく、お守りを配る古式に則った富籤を2009年に復活させ、毎年10月10日に行っている[1]。
歴史
寺伝によれば658年(一説には650年)に役小角が箕面滝の下に堂を建設し、本尊の弁財天像を安置し、「箕面寺」と命名したのが始まりである。平安時代に後白河天皇が編纂したとされる『梁塵秘抄』に「聖のすみかは何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ」と歌われている。後醍醐天皇が隠岐に島流しになった際には、護良親王が当寺に帰還祈祷を依頼したという。その後「瀧安寺」という寺号を賜ったとされる。その他にも、山岳霊場として栄え、空海や日蓮、蓮如が修行したほか、現在も護摩法要が行われている。
山門は光格天皇が1809年(文化6年)に京都御所から移築したものである。また、弁財天本堂は後水尾天皇の勅命により1656年(明暦2年)に建てられた。この弁財天は日本四弁財天に数えられる。滝道・箕面川の東側にある鳳凰閣は1917年(大正6年)建立の建築物[2]である。
室町時代末期に織田信長によって焼失し、江戸時代になって後水尾天皇の援助によって現在地に再建された。また天正3年(1575年)に「富会」を挙行した。これを日本の宝くじ発祥とする見方もある。祈願の目的とした瀧安寺の「箕面富」の記録は後述のように、更に平安時代まで遡る。
弁財天を祀っている所から、芸能の寺としても知られ、近松門左衛門・坂田藤十郎[要曖昧さ回避]ら上方歌舞伎関係者が大般若経を奉納している。
富くじ
鎌倉時代編纂の『夫木和歌抄』に収録された藤原兼隆(平安時代中期の公卿)の歌に、瀧安寺で行われていた「箕面富」について記されている。これによると、約950年前より古くから富籤の原型があったことになる。金銭を配るのではなく、当籤した者は「大福御守」が授けられたという。
戦国時代の1575年(天正3年)には「富会」が始まり、江戸時代に刊行された『摂津名所図会』にも、箕面富の賑わいが描かれている。明治時代初期に中止となり、「万人講くじ」と名称・形を変えて、2009年に箕面富が復活した。
現在行われている宝くじの源流とされる江戸時代の富籤は、この箕面富が発祥と考えられている。寺社が修繕資金を集めるため番号が入った富札を発売し、同じ番号の木札を箱に入れて、期日に錐で突いて選び当籤者を決めた。
本堂・伽藍
- 本堂(弁天堂):後水尾天皇の寄進で、奥殿と拝殿から成る神社形式になっている。本尊に弁財天像、脇尊に毘沙門天像と大黒天像を安置する。
- 行者堂(開山堂):本堂同様に、奥殿と拝殿から成る。主尊に役小角像、脇尊に不動明王像と蔵王権現像を安置する。
- 観音堂:2002年再建。中央に如意輪観音像(重要文化財)、左右に阿弥陀如来像、弘法大師像を安置する。
祭事・年中行事
- 4月15日の開山忌、7月7日と11月7日の行者堂法要には、採燈大護摩供と山伏大行列が行われる。
- 毎月7日の月次祭には護摩供と、周辺商店街では「箕面山七日市」』と称する門前市が催される。
- 辨財天秋まつり「箕面富」(10月10日)。
文化財
重要文化財(国指定)
大阪府指定有形民俗文化財
箕面市指定有形文化財
- 瀧安寺文書(中世24点・近世157点) - 中・近世。
- 紺紙金銀字交書一切経(5巻) - 平安時代末期(中尊寺経の一部とされる)。
- 大般若経及び収納具(経典597巻・経櫃6櫃・経帙60帙) - 江戸時代中期、近松門左衛門、坂田藤十郎奉納。
- 大般若経(上林経)及び収納具(経典263巻・経帙22帙) - 江戸時代中期。
- 大般若経(版本)及び収納具(経典596巻・経帙55帙・経箱1点) - 江戸時代中期。
その他
- 弁財天像 - 伝役小角奉納。日本四弁財天の1つ。
- 役小角像 - 室町時代。
- 不動明王像 - 鎌倉時代。
- 蔵王権現像 - 江戸時代。
- ラジオ塔[3] - 昭和14年設置。
札所
所在地・交通
大阪府箕面市箕面公園2-23
脚注
- ^ 辨財天秋まつり「箕面富」―146年のときを経て復活―箕面山瀧安寺ホームページ
- ^ 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/114714
- ^ ラヂオ年鑑 昭和16年版 p.323
関連項目
外部リンク
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