源 政長(みなもと の まさなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・雅楽家。宇多源氏、参議・源資通の三男。権大納言・源経長の養子。官位は正四位下・内蔵頭。
経歴
寛徳2年(1045年)後冷泉天皇の即位後まもなく昇殿を聴される。康平4年(1061年)頃に近衛少将に任ぜられるが、康平7年(1064年)に左少将を止められて民部権大輔に遷る。
のち、後三条朝末まで10年ほど民部権大輔を務め、延久5年(1073年)後三条天皇の四天王寺・住吉神社行幸の折に笙を吹いている[2]。
白河朝の承暦2年(1078年)頃に若狭守に任ぜられるが、遙任であったとみられる。堀河朝の寛治元年(1088年)頃より刑部卿を務め、堀河天皇の侍読となって天皇に笛を教授した。その後、内蔵頭に任ぜられ備中守を兼ねている。
永長2年(1097年)閏1月4日に卒去。享年60。最終官位は正四位下行内蔵頭兼備中守。烏丸姉小路にあった邸宅は死後高階能遠に渡ったが、康和4年(1102年)に焼亡している[3]。なお、この他に八条に水閣を所有していたとされる。
人物
宇多源氏の神楽・郢曲を父・資通より学んで笛・和琴・琵琶に通じ、それを子息の有賢や刑部卿・藤原敦兼らに伝えた。多くの儀式行事で笛を担当。『続教訓抄』では「左右なき管弦者」と称された。堀河天皇にもこれを教え、常に天皇の傍にいるようであったという[1]。琵琶においても、承暦年間に「琵琶の明匠」として、源経信や藤原宗俊らと共に召されている。同じ頃、白河天皇中宮賢子の大原野行啓の試楽において太鼓をうったが、一拍子も誤らなかったという[4]。また、和歌や蹴鞠もよくしたらしい[5]。
官歴
系譜
脚注
- ^ a b c 『中右記』永長2年閏正月4日条。『尊卑分脈』では源憲広の娘とする。
- ^ a b 『栄華物語』松の下枝
- ^ 『中右記』康和4年9月4日条
- ^ 『続古事談』
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 『皇后宮歌合』
- ^ a b 『近衛府補任』
- ^ 『群書類従』25-298
- ^ 『教訓抄』
- ^ 『袋草子遺編』
- ^ a b 『中右記』
- ^ 『江記』『勘例』
参考文献