沈 熏[1][注釈 1](しんくん、1901年9月12日 - 1936年9月16日)は朝鮮(大日本帝国統治下)の小説家。映画脚本家。本名は沈大燮。号は熏(少年時代は金剛生、中国留学時代は白波)。本貫は青松[4]。啓蒙作家とも称される。代表作は『常緑樹』。
略歴
1901年9月12日、現ソウルの永登浦区鷺梁津に生まれる。父は沈相珽。長兄の沈友燮(朝鮮語版)は言論家。次兄の沈明燮(朝鮮語版)は牧師。14歳のとき、京城の京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)に入学するが、1919年の三・一運動で独立万歳を叫んで憲兵隊に逮捕され6ヶ月間、西大門刑務所に投獄された。出獄後、北京へ亡命し、上海、南京を経て杭州の浙江大学に籍を置き、劇文学を学んだ。この頃、李東寧、李始榮、厳一波、廉温東、劉禹相、劉鎮国と知り合う。1923年に帰国、安碩柱と知り合い、崔承一、李慶孫、李承萬、金永八、林南山らと「劇文会」に参加する。翌年には東亜日報社に入社した。『東亜日報』に連載した「美人の恨」という翻訳小説から、沈の名が紙面に登場するようになった。映画界でも名を載せ、最初の映画小説『仮面踊り』を『東亜日報』に連載し、1927年には『夜明け』を原作から脚色、監督までこなして、封切させた。
1930年代には、日本側の圧力を受け、受難の日々を送った。『朝鮮日報』に連載した『東方の愛人』が当局の検閲で中止を余儀なくされ、同誌に『不死鳥』を連載したが、これも当局から掲載停止処分を受けた。1933年に発表しようとした詩集は、その半分以上を検閲で削り取られた。経済的に不安定であった沈は、京城を離れ忠清南道唐津郡に創作に打ち込む。名作『常緑樹』は「筆耕舎」と名づけられた新築の家で書き上げられた。この作品が、東亜日報創刊15周年記念懸賞に当選する。賞金の一部で「常緑学院」を設立。常緑学院は後の常緑国民学校の母体となった。沈は『常緑樹』の映画化に取り掛かり、脚色、配役まで整えたが、またも当局の妨害に遭い、実現できなかった。この頃、腸チフスにかかり、大学病院に入院する。1936年9月16日、腸チフスが原因で逝去した。その遺骸は京畿道龍仁郡木枝面新鳳里の墓に埋葬されている。
年譜
作品一覧
小説
- 東方의 愛人(1930) 未完
- 不死鳥(1930) 未完
- 永遠의 微笑(1933)
- 織女星(1934)
- 常綠樹(1935)
- 黃公의 最後(1936)
- 大地(1936) ※パール・バック著『大地』の翻訳
詩集
- 그날이 오면(1932) 1932年に出刊しようとしたが、当局の妨害に遭う。沈の死後、刊行される。
映画関連
日本語で読める作品
- 学塾常緑樹の会訳『常緑樹』龍溪書舎、1981年
- 金炳三訳「その日が来たら」『20世紀民衆の世界文学』三友社出版、1990年
脚注
注釈
- ^ 当時の出版物では「沈熏」と載っていたが[2]、一部の文献では「沈薫」と記述している[3]。
出典
関連項目