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後廃帝(こうはいてい、ハウ・フェ・デ、ベトナム語:Hậu Phế Đế / 後廢帝)は、後黎朝大越中興期(中国語版)の第25代皇帝。名は黎 維祊(レ・ズイ・フォン、ベトナム語:Lê Duy Phường / 黎維祊)[1]。治世の元号から永慶帝(えいけいてい、ヴィン・カイン・デ、ベトナム語:Vĩnh Khánh Đế / 永慶帝)とも呼ばれる。
生涯
裕宗の次男。母は正宮の鄭氏玉欉(定南王鄭根の子の提郡公鄭閏の長女)。保泰8年7月8日(1727年8月24日)に立太子された[2]。保泰10年4月21日(1729年5月18日)、安都王鄭棡から脅迫を受けた父帝から譲位されて21歳で即位し、永慶と改元した[2]。鄭棡の娘の鄭氏玉㮒を皇后とした。
永慶4年(1732年)、「淫恣無忌」であるとして威南王鄭杠(中国語版)によって廃位され、昏徳公に降封、幽閉された[1]。兄の純宗(中国語版)死後の永佑元年(1735年)に鄭杠が遣わした手の者によって縊殺され、永佑6年(1740年)に青池県金縷社(ベトナム語版)(現在のハノイ市ホアンマイ区ダイキム坊(ベトナム語版))に葬られた[3]。
出典