水島亮太郎

みずしま りょうたろう
水島 亮太郎
本名 同じ
生年月日 (1884-09-30) 1884年9月30日
没年月日 1954年
出生地 日本の旗 日本 東京市神田区東福田町(現在の東京都千代田区岩本町1丁目)
職業 俳優映画監督
ジャンル 新派劇映画時代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1908年 - 1950年
配偶者 鈴木歌子
著名な家族 水島道太郎(甥)
主な作品
生ける屍
桜の園
信号
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水島 亮太郎(みずしま りょうたろう、1884年9月30日 - 1954年[1])は、日本俳優映画監督。母親役や老女役で親しまれた女優鈴木歌子は妻、同じく俳優の水島道太郎は甥にあたる。

人物・来歴

1884年(明治17年)9月30日東京市神田区東福田町(現在の東京都千代田区岩本町1丁目)に生まれる[1]

旧制・和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業し、川上音二郎の主宰する「川上音二郎一座」に入る[1]。その後、1908年(明治41年)に開所した吉沢商店目黒撮影所に入社する[1]。同社は1912年(明治45年)に合併して日活となり、1913年(大正2年)10月には日活向島撮影所が開所し、目黒撮影所は閉鎖された。1915年(大正4年)、日活向島撮影所が製作した細山喜代松監督の『狂美人 (サロメ劇)』に出演の記録がある[2]

1920年(大正9年)、日活を退社し、国際活映の設立に参加[1]、同年、角筈撮影所で『火の山』を監督し、映画監督としてデビューもしている[1]。1921年(大正10年)、巣鴨撮影所に異動、日活向島時代からのなじみの監督の細山喜代松、俳優の葛木香一とトリオを組んだ[1]。1923年(大正12年)には、『生ける悩み』を監督したが、日活向島に復帰した。同年9月1日の関東大震災後、日活京都撮影所に異動となる[1]現代劇の第二部が発足以降は、同部に所属した。

1924年(大正13年)末、細山、葛木とともに帝国キネマ演芸に移籍した[1]。1925年(大正14年)の同社内部での紛争で設立された東邦映画製作所に移籍となる[1]が、翌1926年(大正15年)には、細山、葛木と離れて松竹蒲田撮影所に移籍した[1]。1932年(昭和7年)からは脇役に回り、1936年(昭和11年)には移転に伴い松竹大船撮影所に異動した。第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)まで大船に在籍した[1]

1950年(昭和25年)、稲垣浩監督の『佐々木小次郎』で市波民部役で出演したが、その4年後、1954年(昭和29年)、心筋梗塞のため急逝した[1]。満69-70歳没。

おもなフィルモグラフィ

日活向島撮影所

1915年
1916年
1917年
1918年
1919年

国際活映

1920年
1921年
1922年
1923年

日活向島撮影所

1923年

日活京都撮影所

1923年
1924年
  • 街の物語』 : 監督細山喜代松、原作・脚本畑本秋一
  • 前科者』 : 監督細山喜代松、原作・脚本三木京雨 - 配役・籠ぬけの松
  • 暁の死』 : 監督溝口健二、原作・脚本伊藤松雄、日活京都撮影所第二部 - 配役・たつの先夫・山田鉄治
  • 猛犬の秘密』 : 監督村田実、脚本畑本秋一、日活京都撮影所第二部
  • 現代の女王』 : 監督溝口健二、原作・脚本村田実、日活京都撮影所第二部 - 配役・外交官
  • 蹄鉄屋の娘』 : 監督鈴木謙作、脚本三枝源次郎、日活京都撮影所第二部 - 配役・蹄鉄屋貞利
  • 小さき者の楽園』 : 監督・脚本鈴木謙作、原作三枝源次郎、日活京都撮影所第二部 - 配役・玩具の兵隊さん
  • 信号』 : 監督・翻案脚色村田実、原作ガルシア、日活京都撮影所第二部 - 配役・線路番辰二郎
  • 陸の一夜』 : 監督細山喜代松、原作・脚本鴇田英太郎、日活京都撮影所第二部
  • 島の哀れ』 : 監督細山喜代松、原作・脚本川村花菱、日活京都撮影所第二部 - 配役・六三郎
  • 籠の鳥姉妹篇 恋慕小唄』 : 監督鈴木謙作、原作村田実、脚本細山喜代松、日活京都撮影所第二部 - 配役・いかもの師

帝国キネマ演芸

1924年
1925年

松竹蒲田撮影所

1926年
1927年
1928年
1929年
1930年
1931年
1932年
1933年
1934年
1935年
1936年

松竹大船撮影所

1936年
1937年
1938年
1939年
1940年
1941年
1942年
1950年

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「水島亮太郎」の項。
  2. ^ 狂美人 (サロメ劇)、日本映画データベース、2009年11月30日閲覧。

外部リンク