民主党(みんしゅとう、インドネシア語: Partai Demokrat)は、インドネシアの政党。
2001年9月に、スシロ・バンバン・ユドヨノの政治媒体として設立され、2004年の議会選挙で最初の議席を獲得した後、ユドヨノが大統領に選出された。その後、ユドヨノの連立政権における主要政党のひとつとなった。2009年、同党は議会選挙で過半数を獲得して政権を掌握し、国民議会の与党かつ最大政党となり、ユドヨノは2期目の再選を果たした。
2014年、同党は議会選挙で劣勢に立たされ、民主党の議席の半分を失い、その後はジョコ・ウィドド政権の野党としての役割を果たした。2020年の党大会では、アグス・ハリムルティ・ユドヨノが議長に選出され、2024年には連立政権に参加した。
歴史
2001年の国民協議会特別総会の結果、メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリがインドネシア大統領に選出され、副大統領が空席となった。候補者だったスシロ・バンバン・ユドヨノ(SBY)は、ハムザ・ハスに敗れた。SBYの人気は副大統領選でも明らかで、支持者のフェンチェ・ルマンカン(インドネシア語版)は2004年の選挙に向けて党の結成を提案した。SBYはこれを承認し、党結成をルマンカンに委任した。妻のアニ・ユドヨノは指導的立場を主張したが、SBY自身は党の創設に直接参加しなかった。
党は知識人・学界によって結成された。2001年8月12日から19日にかけて、ルマンカンはSBYの意見を取り入れながら党の概要を決定した。2001年9月9日に民主党が宣言され、9月10日に法務人権省に登録され、スブール・ブディサントソ(インドネシア語版)が党首に選出された。2004年の議会選挙では、得票率7.5%、560議席中57議席を獲得し、総合5位となった。同党はSBYを大統領候補に、モハマッド・ユスフ・カラを副大統領候補に指名した。これには、月星党(英語版)とインドネシア正義団結党も協力した。2004年7月の第1回選挙では、SBYとカラが33.6%の得票率で勝利し、決選投票では60.1%を獲得してSBYの大統領当選が決まった。
2005年5月、党は第1回党大会を開き、ハディ・ウトモ(インドネシア語版)が議長に選出された。しかし、党の最高権限は依然としてSBYにあり、ハディは諮問委員会の委員長に選出された。同党は、2009年の議会選挙で20.9%の得票率で第1党となり、全体の4分の1強に当たる148議席を獲得して、国民議会最大の政党となった。
SBYは、元インドネシア銀行総裁のブディオノを副大統領候補として擁立し、決選投票制の第1回投票で60.8%の得票率を獲得し、メガワティ前大統領と現職のカラ副大統領を破って当選した。アナス・ウルバニンルム(英語版)の辞任後、党は2013年3月30日にバリ州で臨時党大会を開き、議長職を補充した。SBYは無投票で出馬し、他に立候補を表明した党員がいなかったため、全会一致で当選した。
2014年インドネシア議会選挙では、同党は2009年の得票率を下回る15%を目標に掲げた。同党が得票率低下を予想した理由のひとつは、憲法で認められている2期を務めたSBYが大統領選に出馬できないことだった。しかし、同党の得票率は10.19%にとどまり、議席の半分以上を失った。2019年の議会選挙では、同党は当初15%を目標としていたが、後に全国得票の10%に変更した[2]。同党は7.77%の得票率にとどまり、議席を失った。
2020年3月15日、2019年インドネシア総選挙で統合任務司令部を指揮していたアグス・ハリムルティ・ユドヨノ(AHY)が、父親に代わって新議長に選出された。2021年3月5日、一部の党員によってデリ・スルダン県(英語版)で招集された非公認の臨時党大会は、AHYを2025年までの党首に選出した2020年党大会に反して、厶ルドコ(英語版)を新議長に選出した。SBY前議長は、党の最高評議会も地域支部の大多数も要請していなかったため、非合法であると主張し、大会に反対した[3]。
2021年3月31日、政府は臨時党大会の結果を違法と認め、AHYを正当な党首と認めた。2023年に入り、民主党はその決定により、アニス・バスウェダン(英語版)を大統領候補に指名した。それとは別に、民主党はアニスの伴走者にAHY総議長を指名した。しかし衝撃的なことに、アニスは、プラボウォ・スビアント率いる先進インドネシア連合(英語版)を離脱した、民族覚醒党のムハイミン・イスカンダル(英語版)を選んだ[4]。ムハイミンがアニスの伴走者に指名された結果、AHYと民主党は支持を撤回し、連合を離脱した。離脱後の民主党は、ハスト・クリスティヤント(インドネシア語版)が激しい交渉が進行中であると主張したように、AHYがガンジャル・プラノウオを支持することを望んでいる闘争民主党に接近した。民主党はまた、プラボウォがチキアスで父と会談したため、先進インドネシア連合から打診を受けた。
多くの検討の後、2023年9月21日にジャカルタ・コンベンション・センター(英語版)で、AHYと民主党は大統領選挙でプラボウォ・スビアントを支持することを宣言した。皮肉なことに、AHYと厶ルドコは2024年インドネシア大統領選挙で同じ候補者を支持した[5]。
脚注