毛利 綱元(もうり つなもと)は、長門国長府藩3代藩主。第2代藩主・毛利光広の長男。
生涯
慶安3年(1650年)12月23日、江戸で生まれる。承応2年(1653年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、叔父の毛利元知に1万石を分与して、清末藩を立藩する。寛文4年(1664年)、甲斐守に叙任する。天和3年(1683年)、倹約を主とした「天和御法度」を制定する。元禄10年(1697年)には窮民の救済に尽くし、さらに文武奨励や覚苑寺建立など、藩政に尽くしている。
また、文芸・和歌を好み、「歌書尾花末」や「和歌視今集」にもその歌が収められるほどであった。
宝永4年(1707年)、長男の吉元が本家の長州藩主を継いだ。
宝永6年(1709年)3月1日、60歳で死去し、跡を吉元の長男の元朝が継いだ。
没後は覚苑寺および豊功社に祀られた[注釈 1]。
赤穂浪士お預かり
元禄15年(1702年)12月15日、赤穂浪士が吉良義央を討つと、47士のうち岡島常樹、吉田兼貞、武林隆重、倉橋武幸、村松秀直、杉野次房、勝田武尭、前原宗房、間光風、小野寺秀富の10士のお預かりを命じられている。
毛利家は浪士たちを通常の罪人として扱い、護送籠に錠前をかけ、その上から網をかぶせた。到着後は収容小屋に五人ずつ分けて入れ、窓や戸には板を打ち付けた。さらに、収容小屋の周りに板塀を循らし二重囲いにした。戸口と塀の所々に昼夜交代で複数の番人が見張った。本家の長州藩からも監視として、志道丹宮・粟屋三左衛門らが数十人の小者を引き連れ派遣されて来た[1]。
毛利綱元は赤穂義士には遂に会うことは無かった。暖を取るための酒や煙草といった要求も拒否し、火鉢の提供も無かった[注釈 2]。切腹には「扇子腹」として扇子を十本用意させた。幕閣御目付から「其れでは打ち首と大差なし」と注意され、「小脇差を出すようにというお指図」を受けたと記録されている。間光風が本当に脇差を腹に突き立ててしまい、武林隆重も一度で首を落とせなかったが、介錯人はあわてず対応したので騒ぎにはならなかった。
義士切腹後に、綱元は「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と慶び[2]、重臣の田代要人・時田権太夫に命じて収容小屋の破却及び、切腹跡地を清めて藩邸内の何処で切腹したか、判らないようにすべく指示している[3]。
また、検使より「御預人の死骸・道具の処分につき勝手次第」との指図を受け、そのようにしようとしたが、泉岳寺の酬山和尚が全て引き取る旨あったので、荻野角右衛門配下の足軽・手明中間ら十数人が葬送した。のちに酬山は、この時に受け取った義士遺品も売却して金に換えてしまう[4]。
その後も、綱元は江戸で没したにもかかわらず遺体を長府に送らせ、秀元が菩提寺とした泉岳寺にて赤穂義士と併葬されるのを嫌った[5]。これが長府藩が泉岳寺を避け、最終的には絶縁にまで至る嚆矢となった。
六本木ヒルズの毛利庭園内には他のお預かり大名家と異なり、一切の供養塔や顕彰碑の類は存在せず、義士切腹地の場所は、令和の御代になっても全く不明のままである[注釈 3]。
遺品
- 毛利綱元公肖像画 - 下関市立歴史博物館所蔵。(右上画像を参照)
- 綱元公筆「伊勢物語」一冊 - 同。
系譜
- 父:毛利光広(1616-1653)
- 母:清殊院 - 本多忠義の娘
- 正室:房姫(1653-1686) - 祥雲院、池田光政の娘
- 側室:貞性院
- 生母不明の子女
- 養子
脚注
- ^ 神社合祀により豊功社を忌宮神社境内から移して、それまであった櫛崎・松崎・宮崎の各神社を合祀し、現在の豊功神社となる。
- ^ 火気(炭火や吸殻)による自害や反乱を防ぐという意味での収容の定法としては正しい。
- ^ 庭園名に「毛利」を冠した森ビルも踏襲している。
出典
- ^ 『長府藩預義士一件』
- ^ 平塚正彦「毛利甲斐守綱元」(中央義士会「四十七義士全名鑑」2007年)
- ^ 「毛利家文庫」「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)など
- ^ 勝部真長『日本人的心情の回帰点 忠臣蔵と日本人』(PHP研究所、1994年)p.169-73
- ^ “豊功神社のご案内”. 下関市公式観光サイト. 2022年6月9日閲覧。
関連項目
毛利氏 長府藩3代藩主 (1653年 - 1709年) |
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