武蔵国府八幡宮(むさしのこくふはちまんぐう)とは、東京都府中市八幡町に所在する神社。「府中八幡宮」「六所八幡神社」ともいい、地元では単に「八幡神社」とも呼ぶ。
概要
八幡宮周辺は『江戸名所図会』に描かれている[2]。
当社は、「武蔵国」の守護神として建立されたもの。
神輿は、1934年作成の二之宮神輿である[3]。太鼓は、大国魂神社の先代二之宮太鼓。山車は、昭和26年製作で流派は船橋流。
境内からは中世の瓦が出土しており、かつては瓦葺きの社殿が存在していたことが推測される[4]。
現在は、宮司・神主等の神職は不在であり、隣接する大國魂神社により管理されている。
国分寺市西元町の八幡神社が武蔵国の国分寺守護神であるならば、このように国府と国分寺の守護神が明確に分かれている珍しい例となる。
祭神
応神天皇(誉田別命)八幡神[5]。
境内
参道
神社の入口は旧甲州街道に北面しており、「武蔵国府八幡宮」と記された石碑と石灯篭そして一の鳥居がある。また「武蔵府中郷土かるた」の標識がある。
長い参道を南へ進むと半ばに踏切があり、京王競馬場線が横切っている。踏切を渡ると京王電鉄が奉納した二の鳥居と立派な神門がある。さらに進んで左(東方)へ折れるとすぐ三の鳥居と手水舎がある。その先右手に社務所、正面に灯篭、狛犬、拝殿がある。本殿は西向きになっている。周りは杉などの鬱蒼とした林に囲まれている。
鳥居
二の鳥居は、1955年に京王帝都電鉄から奉納されたもの。東方5分程にある東府中駅の代わりに当社より北へ徒歩2分程の所に「八幡前駅」という駅がかつてあり(詳細は東府中駅の歴史を参照)、つながりは深い。
神門
明治31年大國魂神社に建設された随神門が、平成23年に旧水盤とともに当社へ移築されたもの[6]。
歌など
(ま)松を立てない正月飾り — 武蔵府中郷土かるた
大国様と八幡様が宿を探しており、八幡様が宿を捜してくると出かけたきり帰らず、待ちぼうけとなった大国様は、「まつはういものつらいもの」[注 1]と言った。その話に出てくる八幡様が国府八幡宮の祭神であるという[7][8]。このため、大国様を祀る大國魂神社の境内に松を植えても枯れてしまうとされ、市内の正月飾り(門松)には松を使用しないならわしとなっている。
「府中六社の宮(=大國魂神社)」の末社にして、甲州街道八幡宿の奥に…祀る処は応神天皇なり…
— 江戸名所図会
相伝ふ、聖武天皇の御宇、日域の国々に勧請し営宮するところのもの、これ皆八幡村の八幡宮といふ…当社も、古へは本社禮殿ならびたちて荘厳蕩々たり…今は茅葺の小社なり。
— 江戸名所図会
(大国魂神社)末社
八幡社。除地、三丁三畝十歩、小社、本社より四丁程東にあり、此邊呼て八幡村と云ふ、鳥居あり街道に臨めり、鳥居より社前に至るまで左右松樹を列す、例祭年々八月十五日。
— 新編武蔵風土記稿
近隣
- 神社の南側を東西に、東京競馬場から品川道へ至る「八幡道(やわたみち)」という道がある。
- 六所宮に至る京所道(きょうずどう・きょうずみち)が西側にある。
- 現、鳩林荘のケヤキ。1988年の環境庁全国巨樹巨木調査、幹周り440cm、高さ25M。
その他
八幡道
当社南側には、東西に細い道「八幡道(やわたみち)」が通っており、西は「京所道」につながり六所宮、東は品川道と瀧神社の上の「御滝道」につながっていた[12]。
ギャラリー
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社務所
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手水舎
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神門
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二の鳥居
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一の鳥居
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一の鳥居
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石灯篭
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林
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八幡道
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八幡道
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八幡道
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八幡道
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八幡道
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本殿裏手 - 八幡町地域公園に掛けての発掘調査
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脚注
注釈
- ^ 「は憂いもの、つらいもの」の意味
出典
参考
- 北多摩神社誌 昭和51年8月27日発行 発行者 北多摩神道青年会むらさき会
- 府中観光協会 武蔵国府八幡宮
- 日本史大戦略
- 神のやしろを想う 「郷土の鎮守様~府中市東部の神社散歩・その2」(西武多摩川線沿線編)
- 武蔵国衙年貢注文(金沢文庫文書)
- 東国の歴史と史跡(菊池山哉著)
- 深澤靖幸 国府八幡宮の中世瓦
- 「府中宿六所神領」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ92多磨郡ノ4、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763988/83。
- 斎藤長秋 編「八幡宮」『江戸名所図会』 九、有朋堂書店、1893年12月、277頁。NDLJP:994938/43。
関連項目
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、武蔵国府八幡宮に関するカテゴリがあります。