正親町 公董(おおぎまち きんただ)は、幕末の公家、明治期の華族、陸軍少将(兵部省)。
経歴
山城国京都で権大納言・中山忠能の二男として生まれ[3]、権大納言・正親町実徳の養子となる[1]。嘉永4年3月23日(1851年4月24日)に元服し昇殿を許された[4]。嘉永5年7月3日(1852年8月17日)左近衛権少将、安政3年2月14日(1856年3月20日)国事寄人となる[1][4]。
文久3年5月(1863年6月)長州藩が外国船への砲撃を行い攘夷を決行すると、同年6月14日(7月15日)長門国監察使に任じられ長州藩に攘夷実行嘉賞の勅諚を届け、三田尻で三条実美と会見した[1][4]。同年八月十八日の政変により、同年10月7日(11月4日)三条との会見を咎められ差控となり、慶応3年1月25日(1867年3月1日)に赦免された[1][4]。
王政復古後、慶応3年12月13日(1868年1月7日)参与に就任し、慶応4年2月2日(1868年2月24日)左近衛権中将に任じられた[2]。同年2月9日(3月2日)東征大総督参謀となり、さらに奥羽追討白河口総督を務め各地を転戦し、明治元年11月5日(1868年12月18日)京都に帰還した[2]。その後、兼皇后宮亮、三等陸軍将、十津川郷巡察使、陸軍少将などを歴任[2]。明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄300石を永世下賜された[2]。明治4年3月24日(1871年5月13日)に免本官となる[2]。
1873年12月、河鰭実文、秋月種樹らと華族の職責を果たすことを目的とした通款社を設立した[5]。
系譜
脚注
- ^ a b c d e 『明治維新人名辞典』179-180頁。
- ^ a b c d e f 『百官履歴 下巻』450-452頁。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、273頁では三男。
- ^ a b c d 『正親町家譜』
- ^ a b 『明治時代史大辞典 第三巻』316頁。
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻、273-274頁。
- ^ a b c 『弊風一班 蓄妾の実例』黒岩涙香、現代教養文庫、社会思想社、1992年、p183
- ^ a b 中山孝麿『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
参考文献
- 修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
- 宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第三巻』吉川弘文館、2013年。
- 『正親町家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。