橘 英雄(たちばな ひでお、1912年11月25日[1] - 1983年10月7日)は日本の実業家。元讀賣テレビ放送代表取締役最高顧問。富山県出身。自宅は東京都港区元麻布。
経歴
1935年、読売新聞社入社。1947年に経済部長、1952年に労務厚生本部長、1963年に同社取締役、1971年に同社専務取締役を歴任した。
1979年に讀賣テレビ放送へ移籍し、代表取締役副社長に就任。1980年5月に急死した八反田角一郎に代わって、代表取締役社長に就任。この間に読売新聞大阪本社、読売ゴルフ、読売文化センター、読売連合広告社、広島テレビ放送、日本海テレビジョン放送の取締役、京阪神ケーブルビジョン、日本民間放送連盟、関西経営者協会、関西経済連合会の理事を務めた。1983年に讀賣テレビ放送社長の座を青山行雄に譲り、最高顧問に退く。
1983年10月7日午前6時23分、肺炎のため東京都大田区の蒲田総合病院で死亡(享年70歳)[2][3][4]。
脚注
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、761頁。
- ^ よみうりテレビ前社長の橘英雄さん死去朝日新聞1983年10月8日朝刊23面
- ^ よみうりテレビ前社長の橘英雄さん死去毎日新聞1983年10月8日朝刊23面
- ^ よみうりテレビ前社長の橘英雄さん死去読売新聞1983年10月8日朝刊23面
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歴代社長1 2 | |
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歴代会長3 | |
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11957年2月(開局時) - 1980年5月の間は「代表取締役」という肩書のみで、名目上は社長職は設けられていなかった。 21963年5月 - 1965年9月、1979年12月 - 1980年5月の間の(事実上の)社長職は空席。 32000年6月 - 2002年6月の間の会長職は空席。 |