桜井賢三

桜井賢三
桜井賢三

桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年明治13年)3月5日 - 1950年昭和25年)12月29日[1])は、日本教育者

経歴

岐阜県安八郡墨俣町(現在の大垣市)出身。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した後、1910年(明治43年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業した。福島県立相馬中学校校長、山口県室積師範学校校長、静岡県師範学校校長、東京府豊島師範学校校長、京都府立女子専門学校校長を歴任。1935年(昭和10年)、東京府立第一高等女学校校長に就任し、東京府立第十四高等女学校校長も兼ねた。

東京高師時代(明治35年、1902年)、日本で初めてサッカーのチームができた際の選手の一員として、1904年には初めての外国人チーム(横浜のYCAC)との試合を現在の横浜スタジアム(当時の横浜公園)でやったことでも知られる。

長男は東京学芸大学教授であった櫻井芳朗(東洋史)、孫に一橋大学教授であった櫻井雅人(英語学、音楽史)、櫻井澄夫(地名研究家)がいる。墓地は多磨霊園にある。

著書

  • 『国民道徳と現代思想』(東京宝文館、1925年)
  • 『現代の教育者』(東京宝文館、1926年、ゆまに書房、1991年(復刻版))

脚注

  1. ^ 『茗渓会七十年史』茗渓会、1952年、114頁。 

参考文献

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。 
公職
先代
東京府立第一高等女学校長
市川源三
東京都立第一高等女学校
1943年 - 1944年
東京府立第一高等女学校長
1935年 - 1943年
次代
大舘竜祥
先代
(新設)
東京都立第二十一高等女学校長
1943年 - 1944年
東京府立第二十一高等女学校長
1943年
次代
大舘竜祥
先代
(新設)
東京府立城北高等女学校
1942年
東京府立第十四高等女学校長
1940年 - 1942年
次代
浦牛原初蔵
先代
御園生金太郎
東京府豊島師範学校長
1922年 - 1932年
次代
成田千里
先代
星菊太
静岡県静岡師範学校長
1919年 - 1922年
次代
奥平覚治
先代
(新設)
山口県室積師範学校長
1914年 - 1919年
次代
永島意之助
先代
野村浩一
福島県立相馬中学校
1912年 - 1914年
次代
滑川一郎