板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月12日[1] - 1949年(昭和24年)12月20日[2])は、貴族院勅選議員、衆議院議員、参議院議員。研究会所属。旧姓・山田[3]。
経歴
新潟県出身。山田六右衛門の息子として生まれ[3]、初代・板谷宮吉の養子となる[4]。慶應義塾大学卒業後、明治45年(1912年)板谷商船[5]副社長、小樽商業会議所顧問、北海道農友会会頭、札幌電気軌道、渡島海岸鉄道、沙流鉄道、洞爺湖電気鉄道、帝国自動車工業各社長。樺太銀行、平和生命、十合百貨店、日本電気冶金、羽田精機各取締役。
昭和2年(1927年)に栗林五朔急死に伴う北海道選挙区の補欠選挙において政友会は室蘭から適当な候補者を絞れず小樽の板谷が推薦されることになり、民政党の候補者と争い衆議院議員に当選した[6]。以降4区で第16-18回[7][8]と連続当選していたが室蘭出身の南条徳男にやぶれ4区からは撤退した。当選6回を数えた。齋藤内閣で鉄道参与官、昭和21年(1946年)5月18日に貴族院議員に勅選され[9]、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。同年、参議院議員に当選、参議院運輸及び交通、運輸各委員長となる。日本自由党、民主自由党で参議院議員会長。1949年(昭和24年)12月20日に死去、72歳[10]。死没日をもって勲三等瑞宝章(勲四等からの昇叙)追贈[11]、正五位から従四位に叙される[12]。村上義一により哀悼演説が行われた。墓所は多磨霊園。
親族
脚注
- ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、36頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』97頁。
- ^ a b 『47都道府県別 日本の地方財閥』56頁。
- ^ a b c 『人事興信録. 6版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第36回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「議員当選通牒受領」『官報』1927年7月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『衆議院要覧. 昭和7年5月 乙』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『衆議院要覧. 昭和7年5月 乙』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『官報』第5804号、昭和21年5月23日。
- ^ 「議員死去及び弔詞」『官報』1949年12月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『官報』第6896号37頁 昭和25年1月10号
- ^ 『官報』第6888号323頁 昭和24年12月27日号
- ^ “板谷順助”. www6.plala.or.jp. 2020年11月21日閲覧。
- ^ “木村義雄 近現代・系図ワールド~木村武千代”. kingendaikeizu.net. 2020年11月21日閲覧。
参考文献
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、55頁。
- 菊地浩之『47都道府県別 日本の地方財閥』平凡社〈平凡社新書〉、2014年。
議会
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先代 新設
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参議院運輸委員長 1948年 - 1949年
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次代 中山寿彦
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先代 新設
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参議院運輸及び交通委員長 1947年 - 1948年
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次代 廃止
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参議院運輸委員長 (1948年-1949年) |
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参議院運輸及び交通委員長 (1947年-1948年) |
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第1回 (定数8) |
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↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。 |