松本 錦四郎(まつもと きんしろう、1933年〈昭和8年〉8月24日 - 1973年〈昭和48年〉1月20日)は、日本の俳優。本名:植田 浩安(うえだ ひろやす)。大阪府出身[3]。
1950年代後半から1960年代半ばにかけ、時代劇俳優として映画・テレビで活躍した。代表作は『琴姫七変化』『噂の錦四郎』(ともによみうりテレビ / 日本電波映画、日本テレビ系)。
来歴
幼少時から地唄舞を習う。関西大学文学部卒業後、1956年、日活ニューフェース三期生・穂高 渓介としてデビュー(同期は小林旭、二谷英明など)したが、1958年には歌舞伎役者を志し八代目・松本幸四郎(のちの初代・松本白鸚)門下となり、まもなく松竹社長・大谷竹次郎に認められて松竹入りとなる。同年の映画『七人若衆誕生』『七人若衆大いに売り出す』で七人の最年長のリーダー格役として出演。ちなみにこの七人には林与一や花ノ本寿、中山大介などがいた。
若手二枚目俳優として映画に出演ののち、1959年、松竹が時代劇映画制作からの撤退を打ちだしたことを受け、1960年からはテレビに進出。『琴姫七変化』へのレギュラー出演を皮切りに、『風雲児時宗』(1961年、フジテレビジョン / 日本電波映画)や『夢殿』(1962年、日本テレビ放送網)とテレビ時代劇に次々と主役として抜擢される。『琴姫七変化』以降のアイドル的人気から、遂には自らの名を冠したテレビシリーズ『噂の錦四郎』(よみうりテレビ / 日本電波映画、日本テレビ系)への主演となった。
しかし『噂の錦四郎』終了後は、所謂「三之助ブーム」など、歌舞伎界の若手御曹司が続々と台頭し始め、1969年には後見だった大谷も死去。年齢的にも30代から40代を目前にして「白塗りの二枚目」然としたイメージからの脱却を迫られ、脇役として現代劇作品へ出演したり、舞踊公演で原点回帰を志向するなど方向転換を図るが伸び悩み、苦悩の中で追い打ちをかけるように自身の不治の病が発覚するなど、再び表舞台に立つ機会は次第に失われていった。1973年1月、失意のうちにガス自殺。39歳没[4]。晩年は人気俳優の座を追われたものの、自殺報道後にファンが後追い自殺を図る(未遂に終わる)といった影響もあった[5]。
主な出演作品
映画
- 最後の突撃(1957年、日活) - 植田浩安 名義[6]
- 幕末太陽傳(1957年、日活) - 穂高渓介 名義
- 鷲と鷹(1957年、日活) - 穂高渓介 名義
- 七人若衆誕生(1958年、以下、松竹)
- 紅蝙蝠
- 落花剣光録
- 七人若衆大いに売り出す
- 高丸菊丸 疾風篇(1959年)
- 影を斬る(1963年、大映)
- 新選組始末記(1963年、大映)
- 続・忍びの者(1963年、大映)
テレビ
- 琴姫七変化(1960年、よみうりテレビ)
- 風雲児時宗(1961年、フジテレビ)
- 夢殿(1962年、日本テレビ)
- 噂の錦四郎(1963年、よみうりテレビ - 日本テレビ)
- 柔一筋(1965年、日本テレビ)
- 新吾十番勝負 第25話「火薬に火をつけろ」(1967年、TBS / 松竹テレビ室)- 剣雷太
- 特別機動捜査隊(テレビ朝日/東映)
- 大河ドラマ 竜馬がゆく(1968年、NHK) - 東久世通禧
- 三匹の侍(フジテレビ)
- 第5シリーズ 第19話「冬の旅」(1968年) - 源之丞
- 第6シリーズ 第10話「花かげろう」(1968年) - 脇坂源十郎
- 喪服の花嫁(1969年、フジテレビ) - 梶本達也
- 右門捕物帖 第3話 「三番手柄 妖刀がゆく」(1969年、日本テレビ / 東宝)
- 大江戸捜査網(12ch /日活)
- 第1シリーズ 第2話「裏街道に命を懸けて」(1970年) - 牧田
- 大奥の女たち(1971年、フジテレビ) - 猿之介
- 銭形平次(フジテレビ/東映)
- 第266話「魔がさした祝言」(1971年)- 津村伊織
脚注
関連項目
外部リンク