松平 忠敏(まつだいら ただとし)は、江戸時代前期の信濃国飯山藩の世嗣。
略歴
寛文12年(1672年)[1]、飯山藩世嗣松平忠継(藩主松平忠倶の子)の長男として生まれる[1]。
貞享2年(1685年)5月、14歳で将軍徳川綱吉に拝謁した[1]。元禄7年(1694年)1月18日、奥詰[注釈 1]として幕府に出仕したが、10月11日に役を解かれている[1]。
元禄7年(1694年)12月18日、父の忠継は病気を理由として廃嫡された[1]。翌元禄8年(1695年)2月13日に、祖父・忠倶を継ぐべき世嗣(承祖嫡孫)として認められる[1]。しかし、同年12月7日に忠敏は24歳で死去した[1]。
このため、弟の忠喬が藩の世嗣になることになった。しかし、祖父の忠倶は元禄8年(1695年)3月に大坂加番に任じられており、翌元禄9年(1696年)5月に任地大坂で没した。忠喬の将軍への御目見や任官は、家督相続が許可された後に行われることになった。
脚注
注釈
- ^ 奥詰は綱吉の時代に設けられた役職で、譜代大名・外様大名の中から任命されて隔日で登城し、将軍の諮問に応えた[2][3]。
出典
参考文献