松平家次

 
松平家次
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄6年7月29日1563年8月17日
別名 通称:監物
神号 甘美毘古伊都都賀須命[注釈 1]
戒名 乾崇院殿徳誉心峯道観大居士
墓所 桜井山菩提寺愛知県安城市桜井町)[2]
主君 今川義元
氏族 桜井松平家
父母 父:松平清定
兄弟 家次、梵光院(松平好景室)
忠正忠吉、忠広、菅沼定盈妻、竹田定加
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松平 家次(まつだいら いえつぐ)は、戦国時代武将桜井松平家3代当主。通称は監物[3][2]

略歴

安城市の菩提寺にある桜井松平家歴代の墓所。家次の墓は左から2番目。

松平清定の嫡男として誕生。

天文14年(1545年)、広畔畷の戦いで、家次は父・清定、酒井忠尚榊原長政らと共に松平広忠と戦うが敗れる。翌年には忠尚は許され、家次の居城・尾張国品野城愛知県瀬戸市品野町)は忠尚の居城となり、品野城を明け渡す。天文22年(1553年)、三河国下和田(愛知県岡崎市下和田町)の領地を巡り、主君・今川義元に訴え、東条松平家松平忠茂と争うが、弘治2年(1556年)、家次の敗訴に終わる。松平元康(徳川家康)の命で品野城に攻めてきた織田軍を撃退し、功績をあげた。

永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起きると一向衆側に味方した[3]

漸シタル処に、永禄五年壬戌に、野寺之寺内に徒者の有ケルヲ、坂(酒)井雅楽助押コみて検断シケレバ、永禄六年癸亥正月に、各々門徒衆寄合て、土呂・鍼崎・野寺・佐々き(崎)に取籠リて、一騎(揆)ヲヲコシて御敵ト成。(中略)。其耳弄、桜井之松平監物(家次)殿モ荒河(義広)殿ト仰被レ合て、別心ヲ被レ成けり。
三河物語

永禄6年(1563年)7月29日死去[3][2]

松平家忠日記』には一揆が収束した永禄7月(1564年)2月に、家次が「累世の御家門」であるとして許されたという記事がある[2]。『寛政譜』では、永禄6年没に疑義を示している[2]。永禄7年没とする説もある[3]

系譜

『寛政重修諸家譜』では以下の順で子女を記している[4]

脚注

注釈

  1. ^ うましひこいつつかすのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[1]

出典

  1. ^ a b 櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.26
  3. ^ a b c d e 松平家次”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月25日閲覧。
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.26-27
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.27

参考文献

  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/23
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)

外部リンク