東亜会(とうあかい)は、日清戦争直後に結成され、短期間存続し、東亜同文会の前身のひとつとなったアジア主義の団体[1]。
概要
1897年(明治30年)に、「東方問題、殊に支那問題を研究し、時局を匡救することを目的とする」と謳って東京で結成された会である。月刊誌・『東亜細亜』を発刊。
1897年、福本誠(日南)の渡欧送別会に集まった陸羯南、三宅雪嶺、池辺吉太郎らの間から会の結成が提起されたのを受け、井上雅二、香川悦次(怪庵)を幹事に準備が進められ、1898年に入ると平岡浩太郎の仲介で江藤新作らが会に合流した[2]。主要な会員として、陸羯南、三宅雪嶺、志賀重昂、福本日南、犬養毅、江藤新作、平岡浩太郎、井上雅二、池辺吉太郎(三山)、宮崎寅蔵(滔天)、内田良平、田村怡与造・福島安正・宇都宮太郎・安藤俊明・埴原正直・小幡酉吉・原口聞一・村井啓太郎・佐藤宏[3]、平山周らが参加していた[4]。東亜会は犬養毅、平岡浩太郎ら進歩党系政治家、新聞『日本』、政教社グループ、帝国大学の学生有志で結成された同明会や東京専門学校の学生有志で結成された同仁会とも関係していた[2]。
1898年の戊戌の変法の後、東亜会の会員たちは康有為や梁啓超の日本への亡命に関わった[4][5]。その直後、東亜会は、清国の情勢を踏まえて「対清諸会の分立を不可となし」として、代表の犬養毅と近衛篤麿率いる同文会が協議して東亜同文会を成立させ[6]、東邦協会と善隣協会の一部なども合流して[7]、亡命清国要人の支援にあたるようになった。
脚注
- ^ “アジア主義”. 世界の歴史まっぷ (2019年7月15日). 2020年1月26日閲覧。
- ^ a b 狹間直樹「第五章 東亜会と同文会 (初期アジア主義についての史的考察(6))」『東亜』第415号、霞山会、2002年、67頁。 NAID 120002233403
- ^ 野口宗親「明治期熊本における中国語教育(3)」『熊本大学教育学部紀要 人文科学』第53号、2004年11月30日、45頁。 NAID 110001025567
- ^ a b 狹間直樹「終章 初期アジア主義の歴史的意義--東亜同文会の成立をめぐって (初期アジア主義についての史的考察(最終回))」『東亜』第417号、霞山会、2002年、59頁。 NAID 120002233406
- ^ “清国政変と東亜会”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 7. (1898年10月4日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ 丸谷嘉徳「陸羯南研究」1990年、勁草書房版『陸羯南研究』、267頁、ISBN 9784326931880
- ^ “東亜同文会と東邦協会連合”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 7. (1898年10月29日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧