村岡城(むらおかじょう)、または高谷砦(たかやとりで)は、神奈川県藤沢市村岡東に所在する日本の城(砦)跡。現在は当時の遺構が残存しないが、旧所在地点が「村岡城址公園」として都市公園化している。二伝寺砦・御幣山城・長尾城とともに、玉縄城を守る支城であったと考えられている。
概要
藤沢市南東部の、鎌倉市に接する村岡東地区の丘陵上に立地する。
『新編武蔵風土記稿』では、この地を「村岡五郎良文宅跡」と紹介し、平高望(高望王)の5男で、坂東八平氏の祖と言われる平安時代中期(10世紀)の武将・平良文(村岡良文)の相模国における居館であったとする伝承を掲載している[2]。
1333年(元弘3年)の新田義貞による鎌倉攻撃の際、義貞が拠点にしたとの伝えも残る[3]。
『鎌倉市史』(1959年刊)や『藤沢市史』(1970年刊)では、柏尾川右岸に面した丘陵稜線上に築かれた室町時代(14世紀から16世紀)の城郭であろうとし、長尾城(長尾砦)・二伝寺砦・御幣山城(御幣山砦)とともに、玉縄城の周囲を守る目的で後北条氏により築かれた支城(砦)の1つ(高谷砦、別名・村岡城)と位置づけている[2]。
『鎌倉市史』や『藤沢市史』が編纂された頃(1950年代から1970年代)は、村岡の丘陵地は自然のままであったため、『鎌倉市史』には赤星直忠が調査・作成した村岡城(高谷砦)の簡易な縄張図が掲載されている。それによると、北西→南東方向に主軸をとる丘陵稜線上の平坦面(五反畑と呼ばれる)を曲輪とする山城で、南方を大手(正面)とし、曲輪の周囲には堀切や土塁が存在していたという[2][4]。また北方の搦手側には「おきのやと(三日月谷戸とも)」と呼ばれる谷戸が入り込み、自然の堀を形成していたという。しかし現在は住宅地として造成を受け、これらの遺構の確認は困難となっている[2]。
現在は、赤星の縄張図で「五反畑」と呼ばれている曲輪の中心部付近だった丘陵上に「村岡城址公園」(藤沢市村岡東3丁目28)が造られ「村岡城址碑」が残されている[3]。
脚注
参考文献
- 赤星直忠 1959「鎌倉の城郭」『鎌倉市史 考古編』鎌倉市史編纂委員会 鎌倉市
関連項目