李 之芳(り しほう、1622年9月22日 - 1694年12月18日)は、中国清の学者・文人・詩人。字は鄴園。諡号は文襄。
経歴
明の天啓2年(1622年)、山東省済南府武定州で生まれた。父の李才望と母の李氏の子であり、父の李才望は先祖の家業を継承した。
崇禎15年(1642年)、挙人となった。
清の順治4年(1647年)、清の最初の科挙試験を施行するとき、彼は京考中二甲進士となった。以後彼は浙江省金華府推官に任命され、刑部主事、刑部郎中、広西道と湖広道の監察御史を務めて吏部右侍郎に昇進、兵部左侍郎兼都察院左副都御史などを歴任した。康熙12年(1673年)、彼は総督に任命され浙江軍務に派遣された。康熙21年(1682年)秋に杭州を残して、北京に帰って兵部尚書・吏部尚書を務めて、康熙26年(1687年)、文華殿大学士に任命された。康熙33年(1694年)に自宅で死亡した。雍正11年(1733年)に武定州賢良祠に享された。『清史稿』に伝がある[1]。
彼は死後に太子太保に追叙されたが後日加贈されて少保・文華殿大学士兼吏部尚書となった[2]。
著作
- 「李文襄公詩集」
- 「平定耿逆記」
- 「李文襄公奏疏与文移」
- 「棘庁草」
脚注
- ^ 『清史稿』巻251 列伝三十八
- ^ 欽定大清会典例 巻三
参考文献