杉村 清子(すぎむら せいこ)は、日本の陸上競技(短距離走、走幅跳)選手。1940年代末から50年代初頭にかけて活躍。第1回アジア大会(1951年)で3つの金メダル(個人2、リレー1)を挙げ、1952年ヘルシンキオリンピックの有力選手と目されたが、合宿中に病に倒れて闘病生活を余儀なくされた。
経歴
1949年の日本陸上競技選手権大会の走幅跳で優勝(当時の所属は高井メリヤス[注釈 1])[2]。
日本女子体育大学に入学。1950年7月、日本学生陸上競技対校選手権大会女子走幅跳で、5m86と日本学生記録を更新[注釈 2][4]。1950年8月、日本学生東西対抗陸上競技大会に参加し、女子100m走で戦前の人見絹枝に並ぶ12秒2の日本記録タイ記録を出したほか[注釈 3][3]、女子200m走の初代日本学生記録(26秒0)を残す[5]。1950年10月の日本陸上競技選手権大会で走幅跳2連覇を達成した[2]。
1951年3月、ニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に出場。100m(12.6秒)、走幅跳(5m91)で優勝し、4×100mリレー(岡本貴美子、佐藤妙子、吉川綾子と出場)でも金メダルを獲得。
1951年の日米対抗陸上競技大会では、女子100m走で12秒2の日本記録タイ記録を2度にわたって出したあと、8月16日の日米陸上競技宮城大会で12秒1を出し、日本記録を更新した[3](この記録は10月30日に吉川綾子が12秒0で更新している[3])。また、一連の日米対抗競技の中で、自己の保持する200mの学生記録を25秒7に[5][注釈 4]、走幅跳びの学生記録を6m05に[4][注釈 5]、それぞれ伸ばした。
1952年ヘルシンキオリンピック代表候補に選ばれていたが、1951年9月、オリンピック強化合宿中に病気に倒れた(結核に罹患したという[6])。生死をさまよい9か月間入院。1954年、日本女子体育大学卒業。
栄誉
- 1951年 - 日本スポーツ賞(読売新聞社)受賞
- 1951年 - 朝日スポーツ賞(朝日新聞社)受賞
脚注
注釈
- ^ 現在の奈良県大和高田市で高井仙太郎が創業したメリヤス製造企業。現在は高井ニット株式会社。
- ^ 1930年に湯浅千代子が記録した日本学生記録を更新[3]。
- ^ 1934年に葛尾小秀が記録した日本学生記録を更新[3]。
- ^ この記録は1954年に南部敦子が25秒3(日本記録でもある)で破るまで、約3年にわたって日本学生記録であった。
- ^ この記録は1970年に山下博子が6m26(日本記録でもある)で破るまで、19年にわたって日本学生記録であった。
出典
参考文献
外部リンク
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