本多 忠純(ほんだ ただずみ)は、江戸時代前期の大名。本多正信の三男で、下野榎本藩の初代藩主となった。豪勇で知られた人物で、大坂の陣での戦功によって知行は2万8000石まで加増された。官位は従五位下・大隅守。
生涯
天正14年(1586年)、遠江国に生まれる[1]。若年時より徳川家康に仕え、従五位下に叙された[1]。
慶長10年(1605年)、下野国榎本(現在の栃木県栃木市大平町榎本周辺)に1万石を与えられて大名に列し[1]、榎本藩を立藩した。
慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いに参加[1]。このとき忠純は、岡山に陣した将軍徳川秀忠の陣の先手を前田利常・加藤嘉明・黒田長政らとともに担った[4]。城方の毛利勝永・真田信繁が天王寺口の徳川家康本陣に猛攻を加え、同じく大野治房も岡山の秀忠本陣を攻撃した[4]。岡山口から藤堂高虎・井伊直孝が救援に駆けつけたことで、家康本陣は危急を脱する[4]。『寛政重修諸家譜』によれば、忠純は天王寺口で217の首を挙げる戦功があったという[1][注釈 2]。戦後、下野国皆川周辺で1万8000石を加増され、合計2万8000石となった[1][注釈 3]。
寛永8年(1631年)12月13日、忠純は46歳で死去した[1][注釈 4]。これについては、家臣に殺害されたとの伝承があり(#人物参照)、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は忠純が家臣に殺害された説を採る[7]。忠純は都賀郡水代村の大中寺(榎本大中寺)[注釈 1]に葬られた[1]。忠純の墓は榎本大中寺に現存しており、「本多大隅守忠純の墓」として栃木市指定文化財(考古資料)に指定されている[8]。
実子として忠次がいたが早世しており[9]、婿養子の政遂が跡を継いだ[9]。政遂は加賀藩家老・本多政重(本多正信の二男)の子で[9]、忠純には甥にあたる。
人物
忠純は豪勇で鳴らした一方、非常に短気な人物で、家臣のささいな落ち度も許さず、すぐに手討ちにした[10]。このため、江戸から国許への帰途、栗橋(現在の埼玉県久喜市栗橋地区)において突然家臣に刺殺されたのであるという[10]。
『藩翰譜』では、忠純の家が不慮の禍によって絶えたとし、忠純が「みずから郎等を誅せんとして誤ちて死したり」という伝聞情報を記す[11]。
系譜
『寛政譜』は2男2女(男子1名は養子)を載せる。( )内は『寛政譜』の記載順。
- 正室:片桐且元の養女
- 生母不明の子女
- 養子
- 二男(2):本多政遂 - 主税助。本多政重の子(忠純の甥)。婿養子となり家督を継ぐ。
正室
正室は片桐且元の養女である[1]。忠純正室の実父は片桐貞隆(且元の弟)[2][3]、母は貞隆正室(武田一雲の娘)である[注釈 5][3]。ただし、貞隆の家を継いだのは異母兄の片桐貞昌(片桐石州)であった[3]。忠純正室は伯父にあたる片桐且元に養われ[3][2]、ここから本多家に嫁いでいる[2]。
脚注
注釈
- ^ a b 通称「榎本大中寺」。栃木市大平町西山田に同名の「大中寺」があり、曹洞宗の「関三刹」の一つとして著名である。榎本大中寺は、戦国期に大中寺の継承争いが生じた際に榎本の地に創建されたものという。
- ^ 『藩翰譜』では、忠純は「天王寺より押し寄せ戦ひて」とある[5]。
- ^ なお、『藩史総覧』では加増の際に皆川藩に転封したと見なし、この時点で榎本藩が廃藩となったと記す[6]。
- ^ 『寛政譜』編纂時の本多政房家(本多犬千代の代で途絶えた榎本藩主家の名跡を継ぐ形で興された大身旗本家)からの呈譜には56歳とあるというが[1]、これに従えば天正4年(1576年)生まれとなり、次兄の本多政重より年上となる。
- ^ 同母弟に片桐貞晴(旗本となる)がいる。
出典
外部リンク
本多氏 榎本藩初代藩主 (1605年 - 1631年) |
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