曲枢

曲枢(クチュ、? - 1311年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。

概要

曲枢の先祖は「西土の人」で、テュルク系民族であったと見られる。曾祖父の達不台、祖父の阿達台、父の質理花台はいずれもモンゴル帝国に仕えており、王爵を追封されている。また、「阿達台」を『元朝秘史』の功臣表で48位に列せられる「ウドタイ(兀都台)」と同一人物であるとする説もある[1]

曲枢は7歳の時に両親を失ったが、既に沈着冷静な性格であったため、若くしてココジン・カトンオルドに仕えることになった。アユルバルワダ(後の仁宗ブヤント・カアン)が幼いときから身近に仕え、長じるとその側近となった。

1307年(大徳11年)、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が亡くなると、その寡婦のブルガン・カトンは自らの地位を保つため安西王アナンダを擁立しようとした。これに反発したハルガスンらは密かにカイシャン、アユルバルワダ兄弟に連絡をとり、より近くにいたアユルバルワダは母のダギとともにクーデターを起こしてブルガン、アナンダらを捕らえた。その後、遅れて到着したカイシャンがクルク・カアン(武宗)として即位すると、曲枢はこの政変でアユルバルワダを補佐した功績により栄禄大夫・平章政事・行大司農の地位を授けられた。その後も要職を歴任し、最終的には太保・録軍国重事・集賢大学士・大司農となったが、1311年(至大4年)に亡くなった。

バイドゥ(伯都)とベク・テムル(伯帖木児)という息子がおり、両者とも大元ウルスの高官として活躍した。 [2]

脚注

  1. ^ 村上1972,376頁
  2. ^ 『元史』巻137列伝24曲枢伝,「曲枢、西土人。曾祖達不台、祖阿達台、父質理花台、世贈功臣、追封王爵。曲枢七歳失怙恃。既壮、沈密静専、為徽仁裕聖皇太后宮臣。仁宗幼時、以曲枢可任保傅、左右擁翼。曲枢入則佐視食飲、出則抱負游衍、鞠躬尽力、夙夜匪懈。大徳三年、武宗総戎北辺。九年、讒人乱国。仁宗侍皇太后之国于懐、未幾、復之雲中、連年奔走不暇。曲枢櫛風沐雨、跋渉艱険、無倦色。成宗崩、仁宗奉太后入朝、殲姦党、迎武宗即皇帝位、仁宗為皇太子、天下以安。拜曲枢栄禄大夫・平章政事、行大司農。未幾、進光禄大夫、領詹事院事、加特進、封応国公。至大元年、拜開府儀同三司・太子詹事・平章軍国重事・上柱国、依前大司農・応国公。進太子太保、領典医監事。四年、授太保・録軍国重事・集賢大学士、兼大司農、領崇祥院・司天台事、官爵勲封如故。後以疾薨于位。 子二人。長伯都、大徳十一年特授翰林学士・嘉議大夫、遷中奉大夫・典宝監卿、加資徳大夫・治書侍御史。至大元年、陞栄禄大夫、遙授中書平章政事、改侍御史。明年、拜中書参知政事、進右丞、年三十二而卒。子咬住。 次伯帖木児、大徳十一年、特授正議大夫・懐孟路総管府達魯花赤、兼管諸軍奥魯管内勧農事、改府正。至大二年、遷中奉大夫・陝西等処行尚書省参知政事。明年、入為太子家令、遷正奉大夫。明年、遷資徳大夫・大都留守、兼少府監。擬擢侍御史、改除翰林学士承旨・知制誥兼修国史。未幾復為大都留守、兼少府監・武衛親軍都指揮使、佩金虎符。皇慶元年、加栄禄大夫。子二人、桓沢都、蛮子」

参考文献

  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 元史』巻巻137列伝24