春木 南湖(はるき なんこ、宝暦9年(1759年) - 天保10年4月25日(1839年6月6日))は、江戸時代中期から後期に活躍した文人画家である。
本姓は結城氏。名は鯤、字を子魚、通称は門彌。号は南湖の他に幽石斎、烟霞釣叟、呑墨翁など。江戸生まれ。
略歴
伊勢長島藩主増山雪斎に仕え、画業は大坂の木村蒹葭堂に師事したらしく『蒹葭堂日記』にその名が見える。天明8年(1788年)には雪斎の命を受け長崎に遊学。清人の張秋穀や費晴湖から直接彩色などの画法を受ける。このとき紀行文『西遊日簿』は木村蒹葭堂の元を出立するところから始まり、備前の浦上玉堂を訪ね、同じく長崎を目指す司馬江漢と道連れとなったことなどが記載されている。壮年期になって4歳年下の谷文晁の門下となり、山水画や花鳥画を得意とした。また詩文にも巧みで小不朽吟社の一員であった。老後は江戸の書画会や尚歯会の常連となり、当時「南湖、文晁を併せて天下の二老と称す」と称されるほどの名声を得ていた。享年82。浅草幡随院の智白院に葬られたが後年多磨霊園に移葬される。
長男南溟、次男西湖、孫南華・曾孫南渓・玄孫南江もそれぞれ画家として活躍した。また門下に金井烏洲・金井毛山・長谷川嵐渓・相沢石湖・斎藤墨湖・佐藤正持などがいる。
春木南湖画系図
出典