春日倉 老(かすがのくら の おゆ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての僧・貴族・歌人。氏は春日蔵・春日椋とも記される。姓は首。官位は従五位下・常陸介。
経歴
春日倉氏(春日倉首)は、春日倉人(職業部の一つで、春日にあった朝廷の倉庫の業務に従事した部民)の首長[1]。春日倉氏の出自は不明だが、春日氏の一族[2]、あるいは、渡来系氏族の蔵氏(蔵史)の一族[3]とする説がある。
当初は出家し僧名は弁基[4]または弁紀[5]と称した。大宝元年(701年)に還俗。春日倉首の氏姓と、老の名を与えられ、追大壱に叙せられた。和銅7年(714年)従五位下に叙爵し、のち常陸介に任ぜられた。卒年は不明だが、享年52とされる[6]。
『万葉集』に弁基として1首[4]、春日倉首老の名で7首[7]の計8首が入集している。弁基としての作品は『新勅撰和歌集』にも採られている。『懐風藻』に五言絶句が1首採録されているほか、『常陸国風土記』の編者の一人ともされる[2]。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による。
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
- ^ 太田[1963: 1490]
- ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』
- ^ 直木[2003: 410]
- ^ a b 『万葉集』巻3-298
- ^ 『続日本紀』大宝元年3月19日条
- ^ a b 『懐風藻』
- ^ 『万葉集』巻3-56,62,282,284,286,1717,1719
参考文献