日韓歴史共同研究(にっかんれきしきょうどうけんきゅう)とは、2002年から2010年まで2回にわたり日本と韓国が共同で行った歴史研究のことである。
第1回日韓歴史共同研究は、2001年の日韓首脳会談の合意に基づき、2002年から2005年にかけて行われ、2005年6月に報告書が公開された[1]。第2回日韓歴史共同研究は、2005年の日韓首脳会談の合意に基づき、2007年から2010年にかけて行われ、2010年3月に報告書が公開された[2]。
当研究が不成功に終わった主な原因として、委員の1人である木村幹は「日韓の政治的意図の介在」「共同研究の制度的不備」「対立を解決する為の手段の準備不足(全会一致か多数決かという基本的なルールさえ存在しなかった)」の3点を挙げている[3]。
この研究委員会に参加した古田博司によると、日韓の意見が対立した時に、日本側が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と怒鳴り、日本側がさらに「資料を見てくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と怒鳴ったという。このような韓国側研究者について古田は、「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」、「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、したがって何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」等々、批判的に評している[4]。
第2回研究では、韓国側の要求により教科書が研究テーマに加わえられたが、教科書小グループの日本側委員の一人だった永島広紀によると、韓国側では日本側に無断で教科書問題を古代史の研究テーマに加えようとするなど、教科書担当以外のグループが教科書問題に介入を始めた。日本側が抗議すると、韓国側の古代史担当者の一人が「人格攻撃を受けた」と言い出し、長期間会合が紛糾したこともあったという。永島によれば、韓国側の研究者は扶桑社の『新しい歴史教科書』への攻撃に終始していた[5]。
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