日根野吉雄
日根野 吉雄(ひねの よしかづ[1])は、江戸時代前期の武士。下野国壬生藩および豊後国府内藩の世嗣。初名は雅行[1]。通称は次右衛門[2][1]。 生涯元和元年(1615年)、日根野吉明の長男として生まれる[2][1]。母は松平一生の娘[1]。弟に三之助がいる(早世)[2](『寛政重脩諸家譜』では、某氏の子で、吉明の養子としている[1])。妹は能勢頼香の妻となった[2][1]。正室は稲葉一通の娘[1]。 同9年(1623年)、9歳のとき、初めて将軍・徳川秀忠に拝謁した[1]。 正保2年(1646年)12月15日、父に先立ち31歳で早世した[2][1][3]。萬壽寺乾叟は『禪餘集』の中で、吉明の二子とも自殺したと記述している[4]。 法名は松翁浄哲清岩院[1]。はじめ法禅寺(現・東京都品川区)に葬られた[1]。のちに伝通院見樹寺(現・東京都文京区)に改葬された[1]。 脚注参考文献
外部リンクInformation related to 日根野吉雄 |