房州うちわ(ぼうしゅううちわ)は、千葉県南房総市、館山市特産のうちわ。千葉県の伝統工芸の一つ。京うちわ(京都府京都市)、丸亀うちわ(香川県丸亀市とその周辺地域)と並ぶ日本三大うちわの一つである。
特徴
- 地域に自生する女竹(細い篠竹)を原料に用い、先端を48~64等分に細く割いた骨[1]と一体となった丸柄を特徴[注釈 1]とする。
- 全ての製作工程が手作業による。工程数が21と多いため、工程ごとに分業して製作する。
- 千葉県指定伝統的工芸品である。
- 経済産業大臣指定伝統的工芸品(千葉県では唯一の指定)である。平成15年に指定された。
歴史
江戸時代、関東でうちわが生産されるようになる。女竹が自生しする房総地方は、うちわに適した竹材の産地として知られ、江戸時代から竹材の出荷が行われていた[2][3]。江戸への積出港としては、那古港(現在の館山市那古)が使われていた。
1877年(明治10年)頃から那古港周辺で、うちわの骨づくりがはじまった。房州うちわ振興協会は、『地方資料小鑑』(1911年(明治44年)千葉県刊行)における、1877年(明治10年)に那古町でうちわ生産が始まり近隣に広まった、という記述を紹介している[3]。『房総町村と人物』(1918年(大正7年)刊行)によれば、1884年(明治17年)に那古の岩城惣五郎(竹材の出荷を行っていた岩城庄七の子)が東京からうちわ職人を招き、うちわ骨の生産を始めたのが房州うちわの起源であるとする[4][3]。ただし、当初は当地で生産したのはうちわ骨だけであり、東京で「江戸うちわ」として仕上げていた[4]。
当地でのうちわ生産については、1887年(明治20年)頃[注釈 2]から那古の忍足信太郎が竹を加工した半製品(割ぎ竹[5])を出荷するようになったことや[2]、1907年(明治30年)に岩城庄七が本格的な割ぎ竹の加工・出荷を始めたこと[2][5]を、その始まりとして位置づける叙述もある。
1923年(大正12年)の関東大震災により、東京のうちわ生産は大きな打撃を受けた[4]。東京のうちわ問屋が那古港に近い船形地区(現在の館山市船形)へ移住し、房州でのうちわ生産が本格化した[1](東京のうちわ問屋・横山寅吉は、震災前の1921年(大正10年)に船形町に移転し[5][注釈 3]、うちわ骨から完成品まで生産する一貫生産を開始していた[4][2]という)。震災後には、県による産業育成指導もあり、町を挙げてのうちわ生産も行われるようになった[5]。これが「房州うちわ」としてのブランド確立に至った[4][2]。那古・船形・富浦といった漁師町では、うちわづくりが女性の内職として歓迎された[5][3]。最盛期には年産800万本に達したという[1]。
1984年(昭和59年)、千葉県指定伝統的工芸品に認定された。
2003年(平成15年)、経済産業大臣指定伝統的工芸品に認定された[6]。
脚注
注釈
- ^ 京うちわは骨に木製の柄を別個に取り付ける。丸亀うちわは平たく削った男竹(真竹)を用いる。
- ^ 1890年(明治23年)と年代を特定する記述もある[5]
- ^ 移転の時期を震災後とする叙述もある[2]。
出典
関連項目
外部リンク