後藤 安太郎[1](ごとう やすたろう、1859年12月30日(安政6年12月7日)[2] - 1936年(昭和11年)10月2日[3])は、日本の実業家。財団法人後藤安報恩会(公益財団法人後藤報恩会の前身)初代理事長[4]。族籍は岐阜県平民[2][5][6]。
経歴
美濃国今尾村(のち岐阜県海津郡今尾町、現・海津市)の百姓[1]、安太郎の長男[7][8]。1880年、家督を相続し、襲名する[7][8]。郷里で油雑穀営業に従事する[9]。不動産、米、株と青年時代から利殖に心を砕く[1]。
会社の重役であり、後藤商事社長[7][9][10]、名古屋米穀取引所理事長[1][5][8]・同相談役[10]、愛知電気鉄道[8][10]、名古屋電力[6]各取締役などをつとめる。名古屋商業会議所議員に推される[10]。
人物
後藤安太郎について、『商工資産信用録 第22回』には「職業・株式仲買、調査年月・1921年7月、正身身代・G、信用程度・Aa」とある[11]。
『商工資産信用録 第35回 愛知県ほか』には「職業・有価証券、調査年月・1934年7月)は「正身身代・Ga◎、信用程度・Aa」とある[12]。
趣味は書画[9]。画幅も多く、珍品を蒐集する[9]。岐阜県在籍で、住所は愛知県名古屋市中区南伊勢町[7][10][5][8]。
エピソード
安太郎は有価証券の所有者としては、名古屋中で一番だという評判があった[1]。株式に没頭し始めた動機については安太郎は次のように述べている[1]。
明治二十四年の
濃尾の大地震はわれわれの郷里ではとてもこの間の
関東地方の震災などとは比較にならぬ惨害であった。わづか五百戸たらずの寒村が倒壊を免れたものタッタ一戸といふみじめさ。しかも二十九年には引続いて大
洪水これは前にもいった
木曽、
揖斐、
長良の三川が毎年のやうに溢れるといふやつなんだが、この年は特別にはげしかった。そこで自分の土地をいよいよ見捨ててわづかな金をつかんで名古屋へ出たのだが、考へてみると地所建物では損をするし、米の相場は極限されてゐるし、今後永遠に生命のある金儲けは、株式に限る。株式ならば経済の理論に従って明らかに動く。従って米よりも確実性に富んでゐる。そこでその後は専ら
株式相場にばかり熱中した。
— 『中京実業家出世物語』
栄典
家族・親族
- 後藤家
- 親戚
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 商業興信所編『商工資産信用録 第22回』商業興信所、1921 - 1926年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 赤壁紅堂『中京実業家出世物語』早川文書事務所、1926年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 『楊城縉紳集 昭和甲戌』珊珊社、1934年。
- 『商工資産信用録 第35回 愛知県ほか』商業興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 総理府賞勲局編『紺綬褒章名鑑 賞勲局百年資料集 大正8年〜昭和16年』大蔵省印刷局、1986年。