姓名
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張允
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時代
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後漢時代
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生没年
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〔不詳〕
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字・別号
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〔不詳〕
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出身地
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〔不詳〕
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職官
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〔不詳〕
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爵位・号等
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-
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陣営・所属等
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劉表
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家族・一族
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従父:劉表
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張 允(ちょう いん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家、武将。従父は劉表(劉表の甥。劉表の姉か妹の子)[1]。
事跡
蔡瑁と共に劉表から信任を受けた。また後継者問題では、蔡瑁の姪婿にあたる劉琮の後継を支持し、兄の劉琦を退けようと謀った。劉表の病が重くなると、江夏を守備していた劉琦が見舞いに戻ってきた。張允と蔡瑁は、これを劉表に会わせると後継を考え直す可能性があると勘ぐり、理由をつけて追い返した。やはり劉表死後は劉琮が後継したが、まもなく曹操の荊州進攻が始まったため、劉琮は戦わずして降伏した。張允についても、これ以上の記述は史書に見当たらない。
三国志演義
小説『三国志演義』でも登場し、史実同様に劉琮後継のため暗躍する。劉琮が曹操に降伏した後は、蔡瑁と共に曹操から水軍の指揮を任される。赤壁の戦いの緒戦である三江口の戦いでは、蔡瑁・張允は孫権軍に大敗したため、名誉挽回を期して水軍の訓練を再開する。ところが孫権軍の周瑜は、蔡瑁・張允の両名の手腕を警戒し、曹操の間諜として訪れてきた蔣幹に、蔡・張が内通しているとの偽情報を掴ませる。これを蔣幹から聞いた曹操は怒り、両名を呼び寄せて叱責したところ、両名が動揺して言い訳ひとつできなかったため、直ちに処刑してしまう。処刑後、曹操は自分が偽情報にかかったことを悟り、いたく後悔したと描かれている。
注
- ^ 『後漢書』劉表伝原文は「又(劉表)妻弟蔡瑁及(劉表)外甥張允並得幸於(劉)表」、魏文帝(曹丕)『典論』姦讒篇は「至蔡氏有寵、其弟蔡瑁、(劉)表甥張允、並幸于(劉)表」。
参考文献