Yorkside Quartet (Kensho Watanabe and Kisho Watanabe, violins, Jonathan Bregman, viola, Scott McCreary, cello) recorded in performance at Yale University, 2008. View the performance at YouTube
弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D 810 は、フランツ・シューベルトが1824年3月に作曲した弦楽四重奏曲。シューベルトの弦楽四重奏曲の中でも最も演奏されている作品のひとつであり、第2楽章が自身の歌曲『死と乙女』(作品7-3, D 531)に基づいていることから『死と乙女』(しとおとめ、ドイツ語: Der Tod und das Mädchen)の愛称で親しまれている。
概要
この弦楽四重奏曲は前作『第13番 イ短調《ロザムンデ》』(作品29, D 804)とほぼ同時期に作曲されているが、この頃のシューベルトは苦境に立たされていた。というのも、前年の1823年には、当時不治の病といわれていた梅毒の症状が表れはじめ、それに起因して神経衰弱にもなってしまったために、同年5月には入院しなければならないほど(シューベルト研究をしている何人かの学者は、この時点で既に梅毒の第3期まで症状が進行していたのではないかと推測している)になっていた[1]。また、収入を得るために一連の作品を出版しようと、1821年にアントン・ディアベリと出版契約を結んだものの悲惨な結果に終わり、ほとんど金銭を受け取ることが出来なかったため、金銭面でも困窮した状態となっていた。さらに、オペラ作曲家として成功しようと、1814年に作曲された『悪魔の別荘』(D 84)以降何度もオペラを書いているが、そのどれもが失敗しており、この年にはその生涯で最後となったオペラ『フィエラブラス』(D 796)が作曲されたものの、初演の直前に劇場の幹部と対立したため中止されお蔵入りとなり、これも失敗に終わってしまった。
1825年から1826年にかけての冬に第2楽章の手直しが行われた後、同年2月1日に宮廷歌手のヨーゼフ・バルト(Joseph Barth)が居住していたウィーンのアパートで非公式に演奏された[2]が、初演は生前には行われず、シューベルトの死から5年が経った1833年3月に、ヴァイオリニストのカール・モーザー(ドイツ語版)が率いる弦楽四重奏団によってベルリンで初演された。また、楽譜は1831年にウィーンで、フェラーク・ヨーゼフ・チェルニー(Verlag Josef Czerny)によって出版されている。
ブルックナーを予告する3主題制が見受けられる(それぞれニ短調、ヘ長調、イ長調)。第13番『ロザムンデ』や『第15番 ト長調』(作品161, D 887)、および『弦楽五重奏曲 ハ長調』(作品163, D 956)の開始楽章とともに、シューベルトの室内楽ではもっとも規模が大きく、なおかつ最も重要な作例の一つである。