山田 清一(やまだ せいいち、1893年(明治26年)10月2日[1][2] - 1945年(昭和20年)8月15日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
岐阜県出身[1][2][3]。地主・山田利三郎の息子として生まれる[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業、同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第20連隊付となる[1][2][4]。陸軍砲工学校高等科を優等で卒業し、陸軍野戦砲兵射撃学校教官などを経て、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を優等で卒業[1][2][3]。
1924年(大正13年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、ドイツ駐在などを経て、1929年(昭和4年)8月、砲兵少佐に昇進[1]。同年10月、軍務局軍事課員に就任し、整備局動員課員に異動[1]。1933年(昭和8年)8月、砲兵中佐に進級[1]。1936年(昭和11年)8月、陸軍野戦砲兵学校教導連隊長となり、1937年(昭和12年)8月、砲兵大佐に昇進し整備局整備課長に就任[1][3]。1939年(昭和14年)1月、陸軍兵器本廠付となり、同年8月、陸軍少将に進級した[1][3]。
1939年9月から1942年(昭和17年)4月まで整備局長に在任[1][2][3]。同年4月、南方燃料廠長として太平洋戦争に出征した[1][2][3]。1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進む[1][2][3]。1944年(昭和19年)3月、南方燃料本部長となり、同年10月、第5師団長に親補された[1][2][3]。インドネシア、カイ諸島の守備を担当し、セラム島で終戦を迎えた[2]。敗戦の報に接し橘丸事件の責めを負い自決した[1][2][3]。
親族
- 妻 山田勝枝 荒蒔義勝(陸軍中将)の娘[1]
- 義弟 荒蒔義次(陸軍中佐)・西浦和夫(陸軍大佐)[1]
関連項目
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。