山本 主殿(やまもと とのも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣秀次の家臣。
父は同姓同名の山本主殿。織田信長に仕えた西岡十六党の1人で、細川藤孝に属して山城国淀城攻めに参加した人物である[1]。
豊臣秀次に仕え、文禄4年(1595年)7月に秀次事件が発生すると、小姓衆の1人として秀次に従って高野山に赴く。7月15日に秀次が自害する際、秀次に殉じて切腹し、秀次により介錯された[2]。享年18[3]。